隋や唐の時代の中国は科挙(かきょ)制度を用いて官吏を募集していました。
科挙に合格するのは並大抵ではありません。
中国全土から試験を受けに来るので、倍率が高いのは勿論、試験内容も大変難解でした。
科挙に用いられた試験は全て、朱子学と言う儒教の中でも
「目上の人を敬う学問」
による論文形式でした。
それは辞書持ち込みOK、お昼ご飯を食べに帰るのもOKの長期戦でした。
皆様それぞれの持ち込んだ辞書を引用して、
「子、曰く、○○と申されている様に、私は□□の如く父を敬いたい。」
とか
「△△の故事にあるように、私は師をもてなしたい。」
と言った論文を延々書き続けたのです。
受験者は勿論、採点する側も大変です。
一人一人の朱子学に関する論文を読んで、合格、不合格を決めなければなりません。
試験官には知識は勿論、相当の体力、気力が必要でした。
そんな中、とてもいい加減な試験官がいました。
論文をまともに読まず、受験者の出身地だけで合否を決めたり、字か汚いからと言って不合格にしたり、時には賄賂を受け取ったのです。
それを真似する他の試験官も出てきたので、時の丞相は事態を重く見て、その試験官を処罰し、公に晒しました。
そのいい加減な採点をした試験官の名前は
「杜 撰」(ずさん)と言いました。
と言うお話でした。
おしまい。