その中で何より伝えたいのは何度も訴えてますが
「この世はあなたが見たい物を、見たいように、見たいだけ見ている世界」
と言うことです。
その事を的確に伝えているのが映画シックスセンスです。

霊が見える少年はブルースウィリスに言います。
「霊同士お互いは見えない。見たいものだけ見ている。」
の台詞です。
そして「死に至る病」の中でキルケゴールが述べているのが
「死者は墓場の外で社会を形成しない。」
「死は単独者にやってくる」
です。
そう、世界中のどの宗教も、そして世界中の人々が殆ど
「死後は生前の人間関係、社会的関係から解放(開放)される」
と考えていることです。
思うに、死に逃げ道を見出だそうとしている人間の多くは、
「死によって人生の清算を済ませようとするのでは無く、自分の形成する社会を清算しようとしている」のでは?
そう、それを選択する人間は、社会から自分一人が消えた等とは考えず、自分が創り出した世界を自分で閉じようとしているだけなのでは?
と考えてしまいます。
しかし、そこにこそ生きていられる個人的な理由があります。
「死が社会からの解放で無かった場合は?」
です。
そう、死してなお、煩雑な社会に苦しめられるなら?
と思うと「善く」生きていようと思う俗人なわたくしです(笑)。
「死は単独者に訪れる」
そう、命が尽きる時は必ず「一個人」の死なんですよね。名誉や肩書きや家族関係を背負っての死では無いのです。
天国や地獄や来世があっても無かっても、その時は他人の目が無い世界で如何に自分と向き合うか?
なんですよね。
だからこそ「それ」を選択した人間が死後に
「そんな自分と向き合える理由が無い」
てのがわたくしの見解です。
あ~沖縄慰霊の日に不謹慎極まりないblog失礼しました。
でも考えてほしいのです。
「如何に生きるかは如何に死ぬか、または如何にして死なないかの裏表だ」
と言うことを。