死に至る病の中で
「多すぎる知識に対して必要なのは、ソクラテスの様に無知の知、即ち私は何も知らないと言うことを知っていると言う態度で臨むことだ。」
と述べてあります。
驚くべきはこれが1840年代に書かれたと言うことです。
印刷技術の発達により新聞が普及したこの時代に、キルケゴールは早くから警鐘を鳴らしていました。
しかし、ネットに地デジにスマホが普及するこの時代に、胸を張って
「知らない」
と言えない嘆かわしい風潮にあります。
競争社会において自ら「知らない」を主張することは社会的な死を意味するように思えてなりません。
社会とは虚勢と虚構が現実に含まれていていて当然なのでしょうか?
私にはわかりません。
何故ならどんな知識や情報も「私」と言う存在を何ひとつ教えてくれないからです。
キルケゴールは
「父の世代の青年が青春時代に思い悩みながら答えを出したなら、何故、私達の世代でまた悩まされなければならないのか?」
今、正にそんな心境です。
幾千の賢者の言葉を並べても、今、ここで私は私としての苦しみを消せやしない。
ただ楽になるのは
「わからない」
と口に出した時だけです。
ソクラテスよ、キルケゴールよ!
私は貴方達を知っていても貴方達は私のことなどまるで知らない…。