愛されない~キルケゴールの見解 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
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ゲーテの「クラウ゛ィゴ」に対してキルケゴールは美学と哲学を用いて独自の見解を述べます。

マリーはクラヴィゴを心底愛してました。
しかし、ある日クラウ゛ィゴに一方的に婚約を破棄されます。
「欺瞞者」と評判の悪かった彼との婚約等、破棄されて良かった。と周囲の人は言います。
しかし、マリーは周囲から反対されるほどクラウ゛ィゴを愛することを止めません。
それに対して奇才キルケゴールは

「誰もがマリーに同情したが、それはマリーの様に『クラウ゛ィゴを愛した者』の意見では無い。よって何も彼女の慰めとならない。」
と述べてます。

…確かに。周囲の意見は「彼女を想って」よりも「彼を嫌って」の意見でした。
マリーが気持ちを変えないのも当然かも。
「愛されないのに愛し続ける行為は、不渡り手形を大切に懐にしまうようなものだ」
とキルケゴールは述べてます。

最後にマリーは修道院に入ります。
しかし、マリーの心境は
「神に身を捧げるフリをしていれば、神聖な修道女の様に周囲に思われながら彼を慕うことができる。」
とキルケゴールは述べてます。

また「彼女の精神は不安な精神の不毛な活動」と述べてます。

「騒ぎや気晴らしを孤独な人間が求めるのは、すべての人々がほかのことに注意をそらされてる間、安らかに自分自身を相手に出来るからである。」

と言ってます。

この気持ち凄いわかる。
学校の自習時間や、会社の飲み会とか、周りがはしゃいで、自分が相手にされない時間凄い好き。
あの時の「自己との対話」って凄い貴重なんです(笑)。

また私としてはマリーは「答えを出さないことが答え」だった気がします。

愛は自分の為?違うよね?って思うエピソードでした。