優しさとは?最終回 行為の代償 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

「悪人とは奪った命や金銭の価値で決めるものではない。
悪人とは、自らの行為に少なからず罪悪感を憶えている者を言う。」by SPA-k
二十代前半の私が定義した「悪人」です。

優しさを語る為に悪人は避けて通れないかと。
悪意が無ければ悪人では無い。
「じゃあ、人を殺しても悪く思ってない人は?」って反証が即座に入るでしょう。

残念ながら法治国家日本で、悪意を認識せずしての殺人は成立しないと考えます。
教育を受けて成長する限り、命の尊さは必ず認識できます。
その行為に及んだ者は絶対に罪悪感があり、本当に持ち合わせて無い者は、殺人を行う以前に、社会で生きて行けない状態になるか、本人が生存していないでしょう。

また「悪意無き殺人」は紛争地域の少年兵士くらいでしょう。彼等は「奪うこと」でしか存在意義を見出せない様に戦闘訓練を受けて来ました。
私達と同じ価値観を持つには時間がかかるでしょう。
彼等を思うと日本の「心身耗弱」とかはホントに腹が立ちます。

で、本題の優しさですが、
「悪意があれば悪人ならば、善意を意識しない者が善人である」by SPA-k

です。
1. 行為を行うと踏み出す決断をする勇気
2. 行為を実現する強さ
3. 行為が正しいか、正しかったかを判断する知恵と経験。

4. そして1~3を「持ち合わせたい」と思う理想の自分を思い描くこと

これが私が定義する「優しさ」です。
この様に記述すると何だか「成熟した人間」の様ですが、
例えば動植物を慈しみを持つ「優しい幼児」は勿論います。
しかし、その時彼等の瞳は大人以上に、「ためらい」は見当たらないでしょう。
また必ずしも行為が相手に好意として伝わらない時があって当然です。
それが人生です。
そんな時私は

ポルノグラフィティの「サウタージ」の歌詞を思い出します。
「私は私と、はぐれることは出来ないから
許してね 恋心よ。
また会う日までサヨナラ恋心よ。」
って歌詞が頭を回ります。

「自らの行為が相手に受け入れられなくても、
自分が信じた行為だったならば、
自分自身の事は好き で居続けいられる」
ですよ。bySPA-k

「ホントに優しい人は誰かの為にもう既に身体が動いてる人」かな?by SPA-k

あ~やっぱり普遍的真理としては定義仕切れないですね。
またいつか。
次回はブレイクタイムで前述の二十代前半の私の事を。