チューリップで喩えるアリストテレスの目的論 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

予告通り、久しぶりのギリシャ哲学です。
「チューリップの球根は可能的に花であり
チューリップの花は現実的に花である」
う~ん。わかりません!誰か教えて(笑)。
つまり球根は

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チューリップの花を咲かせる可能性を持っているだけで、
今後、天気や栄養の条件などで本当にチューリップの花が
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咲くかは未確定である。
しかし、球根は花に憧れ、その可能性を最大限に現実化させようとしている。
その思いが善である。

これがアリストテレスの「目的論」です。
チューリップの球根からタンポポは咲きません。その可能性はありません。
「球根は咲くことを目指しているか?」と聞かれたら
「咲かせたくないと言う強き目的は見当たらない」です。
また「目的論」は物理学の「作用」や「法則」を無視してます(笑)。
そもそも植物が「善」を目指す等ありえるのか?
「一輪の花を見ればただ肯定するのみ。そもそも否定する理由がない。」と私は考えますが…。
う~ん、自分でも袋小路に入りそうです(笑)。

でも「家元」って考えたらどうかな?
生まれた時から「二代目」を期待されても、その時は
「可能性」を持って誕生しただけ。
「襲名」するかどうかはわからない。

でもその思いがあるなら、向かう目的意識が「善」と考えれないでしょうか?

確かに水と大気の物理的法則で花は咲くでしょう。
しかし、咲いた花の「在る」に着目すると、貴方の人生に花が咲きます(笑)。

追記 基本的に物理と哲学は対立しやすいです。
実際の作用、現象vs概念、存在の戦いですから(笑)。