「疑いと濡れ衣」無の証明 その3 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

「無いことは証明出来ない」を証明するこのテーマも三回目となりました。
前述の六種の相関関係の三回目は

「不在性の不可能行動」
です。
「その場に居なかったんだから、やりようないないやん」
と言うしかないアレです。
そう「濡れ衣」です。
今回が最も身近なテーマかもしれません。
そう、冤罪、濡れ衣は本当に「やって無いことは証明出来ない」のです。
だから容疑者はめっちゃ苦しむのです。
「起こった現象」に対して国家権力と国家予算で犯人捕まえるよりも、
「起こらなかった現象」を個人レベルで国を相手に、無罪を証明するのがどんだけ大変なことでしょう!

脱線しますが、「疑い」には
「疑う時点で是が非でもどうでも良い」
と言う思いが含まれていると考えるのは私だけでしょうか?
中学の道徳で
「嫌いな人がご機嫌だと腹が立つ。
嫌いな人が不機嫌でも腹が立つ。」
ってな内容の授業がありました。
そのことを考えると「疑い」の時点で何を言っても物事の本質は疑いを持つ側の心根にあるんではないかと考えます。

段々まとまりが無くなってきましたが、奇跡的に身の潔白を証明できても、他人様の心の闇を晴らすことまで責任持てないと言うことです。
「疑われた相手を愛してるなら、身の潔白を晴らすより、相手の心の闇を晴らせ」
bySPA-k