無の証明の不可能性その1 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

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今回から長期に渡り、現存哲学の核
「無の証明の不可能」
を説明していきたいです。

ある物は見せたら証明できるけど、無いことを無いとは言えない。

そのことを証明するには

不可視
不在
不可能
の三つが、それぞれ性質と行動に相関し、合計6種類の結果を生み出します。

今日はまず最初に
「不可視性の不在行動」です。

何だか言葉だけは難しいですが例題はネッシーです(写真)
ネッシーの写真が捏造と報道された時、ある研究者は言いました。
「今回の件はネッシーが居ない証拠にはならない。」
私はこの言葉に、無限の夢の広がりを感じ感動しました。

同時にネッシーが居ないことは永遠に証明出来ないと確信しました。

不可視性の不在行動とは、「見えない物を『居ません』と言い切れない」
と言う意味をわかっていただけたでしょうか?

よく学校の先生が「休んでる人、手を挙げて~」って寒い冗談言ってたの思い出しました。

こんな調子であと五回続きます。
どうかお付き合い下さいませ。

明日は「不可視性の不可能行動」についてです。