「死に至る病とは絶望である」 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

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このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

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既述のへーゲルに対抗した人物がいました。
写真の人物、デンマークが生んだ哲学者
キルケゴールです!
彼の哲学の特徴をわかりやすく言うと何より
「まず自分ありき」
です。他人にしても、神様にしろ、真理にしろ、歴史に於いても
「どんな学術や理論でもまずはそれを感じる『自分』が最初に存在する」
と言う考えでした。
そして彼の著書「あれか、これか」
では
主体的真理、即ち自分という主体を「実存」として捉え、
実存は
1. 美的実存
2. 倫理的実存
3. 宗教的実存
の三段階で「私」のあり方は深化するというものでした。
1は短期的に芸術に触れても物質的に虚しさを感じる。そして
2により人間として道徳心を持ち生きるようになる
3しかし人間の有限性(人は万能ではないことを認める苦しみ)
により最終的に神への信仰に至り、「私」が完成するというものでした。

またキルケゴールは「どんなに素晴らしい説教や理論も『死』と言う絶望を回避出来ない。」
と断言しました。

またキリスト教に於いて興味深いのは
「神の救済のみ信じられる」と言う発言です。
これは従来の
「信じる者は救われる」
に反します。
「信じる者は救われる」は裏返すと
「信じない者は救われない」
になります。

きっとキルケゴールは信じる、信じないよりも
1. 万人に死は平等に訪れる
2. 主体的に人間が生きる限り、どんな信仰や真理よりも「私の死」は何よりも特別だと誰しも感じるはず
3. だからこそ「信じるから救われる」ではなく
「救われることのみを信じて主体的に生きなさい」
だと私は解釈しました。

まあ結局、哲学、宗教も捉える側がありのままの姿を見て解釈しているですよね。
世の中の新興宗教やマルチ商法なんて
「海水のなかの真水を見つける行為」
何でしょうね

みなさん 強い自分を持ちましょう