いつもながらデカルトのこの言葉には頭が下がります。
結局この言葉が哲学の始まりであり終わりと信じる。
きっと大昔から人間は、自分の中にある「何か」に気づいてた。
しかし、それは見る事も捕まえる事も不可能なのに、「意志」とは関係なく脈拍を早め、頬を紅潮させ胃痛をもたらす。
ある賢者はそれを「心」と名付けた
またある賢者はそれを「魂」と名付けた。
しかし、人類は今尚「それ」に出会えていない。
何故なら外界に広がる「実体ある存在」の中で一生を過ごす人間は、外界の影響なしに「心」や「魂」に触れることは不可能であった。
「怒り」や「喜び」の感情、
もしくは「誠」や「信義」などの徳は
部分的に魂であり心である。
しかし、それは外界からの「作用」に対して己の内面が「反応し終わった結果」なのである。
賢者達の行為は己の衿を掴んで宙に浮かぼうと試みる様なものだった。
やがて外界に存在する「事実」は「事実のみによって定義される」と言う唯物論者と言う名前の物理屋が蔓延(はびこ)った。
それは外界の作用を作用で定義する無味乾燥なものだった。
哲学は老いぼれ、心と魂は永久に放浪し、神は死んだかに思えた。
外界を外界で解決する物理屋に対して
内面を内面から定義したがる哲学はあまりに脆弱(ぜいじゃく)だった。
しかし、21世紀になり外界から内面に切り込むー
即ち客観的事実をによって「精神を定義する」と言う画期的な時代の申し子は、フロイトの「精神分析」に育てられた「脳科学」であった。
脳科学は哲学の救世主となるか?
そして自らの内面を持って外界に働きかけること「愛」と呼ぶか「エゴ」と呼ぶべきか…。
続く。