発明の後ろ楯と消費社会 | 最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

最後の哲学者~SPA-kの不毛なる挑戦

このブログは、私SPA-kが傾倒するギリシャ哲学によって、人生観と歴史観を独断で斬って行く哲学日誌です。
あなたの今日が価値ある一日でありますように

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今更ながら被災された方々の安全と健康を心よりお祈り致します。
阪神淡路で私自身が被災した時にも感じましたが、大自然は土に返り生まれ変わる。
しかし人間が作り出した物は魂を持たず、瓦礫や廃虚から生命は誕生しないんだなと当たり前のことを痛感しました。

近代に於いて人類の発明や発見及び技術革新は知恵がもたらす「善なる物」と言う風潮が強まりました。

触れることの出来ない「神を議論すること」よりも、
今現在目に見え、現実的な物質を研究する「努力と労働」の方が尊いと考えたからです。(唯物ゆいぶつ論)

まあ「口を動かすな、手を動かせ」ですよね。

そしてそれが極端に解釈されて行けば
1 神を大切に思うからこそ神に対してわかった風に語らない
2 人類の発見や発明は神が人間に課した「労働」の延長の産物であり、清らかな努力から身につけたものは善なるもの
(より良く生きたいと思わないと何時までも原始人)
3 信仰があればこそ労働、研究に没頭できる
4 何を生み出しても許される。悪魔の発明と言われても、努力して頑張れたのは神様を心の中だけで信じたから。

ともなれば電気も石油も兵器もクローン遺伝子も原子力も人類の財産であろうか?

否、本当はニュースを見た日本人全員がわかっているはず。
自分達は何一つも手に入れてないのだと。
ミネラルウォーターも乾電池も紙も服も。
現金や地位も私達自身の身体(胎内)から生まれた物ではなく、

そんな物は命の終焉(しゅうえん)の際に一緒には連れて行けないと言うことを。