前回の続き・・・
車のラジオで情報収集を試みるも、なかなか新しい情報が報道されない。
夜が明けるにつれ、自分たちの被害状況がだんだんとわかってきた。
自室はシェイクされたような状態。「何でこんなものがココに?」という感じでした。
1Fのダイニングでは、水屋の食器はすべてパァ。普段使うことが無いので戸棚にしまっていたもらい物の高級食器もすべてパァー。
要するに、ワレモノは全部だめになりました。
とりあえずの被害はそれだけ。
ただ、前年の9月に伊丹空港が冠水した際、ウチの周辺も市役所の排水路の水栓操作のミスで床下浸水1歩手前(ご近所では床上まで来た家もあった)になり、母の車が浸水したので、「なんで2年も続けて・・・・・」って気分でした。
この時点で、電気・ガス・水道はストップ。
当然、電話もつながらない状態でした。
少し周辺の状況も見ておこうと、徒歩で近所に出かけると、半落ちした橋の近くで川の土手に亀裂が入っていました。
発生直後にガスのにおいがした原因は、近所の団地のガス管に亀裂が入っていた模様。
これからどうなるのか?という不安もそろそろ出始めてくる。
電気・ガス・水道はいつから使えるようになるのか?仕事にはいけるのか?いけない場合の連絡手段は?
それでもパニックにはならず、頭はいたって冷静・・・というよりボォーっとしたような感じ。
神経が1本止まっているというか、(表現は難しいけど)目や耳から情報は入ってもそれを淡々と消化しているような感じでした。
朝食・昼食は多分食べていないと思います。
午後になって近所のヒトに何かもらったような記憶があります。
そして、入院されていた近所のお婆さんが亡くなられたとの知らせが。
もし、入院されてなければ「すごい揺れでしたなぁ」と話してただろうなぁ・・・・と云っていた矢先の知らせでした。
お通夜が震災当日にあったのか翌日だったのかははっきり覚えていませんが、読経の最中に余震があったのはよく覚えています。
午後3時ごろになって、近所のヒトが、「小学校に給水車がくるらしいで」と誘いに来てくれたので並びに行きました。2回ほどきましたがその後待てど暮らせどやってこない。そして午後5時を過ぎました。
「役所やから5時で終了か?」と冗談で言ったつもりがホントになってしまったようで、5時30分で諦めて帰りました。
帰り道、養護施設の水道からチョロチョロと水が出ていたので、バケツに2杯だけもらって帰りました。
夜には、電気・ガスは復旧していましたが、ガスは余震のたびにマイコンメーターが働いてストップしていました。
確か、当日は職場への連絡が出来なかったように思います。
夜になり、電気が使えるようになったのと少しの水が手に入ったので、母親がおにぎりをつくってくれたように思います。
次回に続きます