a happy birthday | Lake Placid Blueオフィシャルブログ Powered by Ameba

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ディ◯ブ応援団団長。

高校時代に組んでいたバンドには

LPBの様なファンも面倒を見てくれる

事務所もそのスタッフも社長も

いなかったけど、「応援団」っていう

おかしなのがあった。

当時のバンドは週末に溝の口で

路上ライブをしたり

真夜中に集まって外で練習してたり。

その頃からメジャーデビューを

目指して頑張ってたつもりだけど、

今思えばただ集まって

ギターをジャンジャカするのが

楽しかっただけで、それが

自分なりの遊びだった。

ただそんな空気の中で生まれた曲も

いっぱいあって、高2の終わり頃

だったかな。自分達なりに

頑張って宅録のミニアルバムを

作った。出来たばっかの時は

最高傑作だと自負してたけど

きっと今聞いたら腹抱えて爆笑

するんだろうな。もう何年も前に

無くしちゃってあんまり覚えてない。

そんな最高傑作だった初めての

オリジナルCDをクラスメートだった

バンドのリーダーは高3の夏、

同じクラスの野球部のヤツに

プレゼントした。

そいつはレギュラーではなかった

けど甲子園出場が決まった神奈川

代表の最後の試合でどの選手よりも

号泣したヤツだった。レギュラーじゃ

ないのに。笑

その時のバンドのリーダーがなんで

そいつにCDをあげたのかは良く

知らないけど、そのCDをきっかけに

そいつは良く路上ライブに来る様に

なった。来る時は必ず誰か友達を

連れて来て、一人また一人と増えて

いった。そいつは「俺達は一生応援す

るぞ!」なんて言って自身が団長に

なって応援団なんてものを作った。

その時のバンドは頻繁に

箱ライブをする訳でもなかった

んだけど、高校生最後にと卒業

ライブをやろうってことになった。

その卒業ライブに向けて、今度は

フルアルバムを作ろうってなって

早速レコーディングが始まった。

クラスの連中に手伝って貰って

コーラスの声を教室で録ったり、メン

バー全員がうちに来てレコーディン

グ合宿みたいになってたり。

あの時のレコーディングは多分

リーダーが1番頑張ってたんじゃないか

な。全曲のレックが終わると同時に

オレはジャケと歌詞カード作りを

した。こっからが大変で、業者に

出してプレスするなんてお金は無いか

ら全部自分達で印刷してハサミで切り

折りして、結局本番当日の明け方まで

作業は終わらなかった。応援団も皆

眠い顔して朝まで手伝ってくれた。

でもオレは「声出なくなるから寝ろ」

って言われて…自分で言ったんだっけ

な。笑


寝てた。

そんな卒業ライブも無事に終わってそ

のバンドはメンバー誰一人進学せずに

音楽一本でそれなりにガムシャラに

やってみた。

しばらくたってからか、進学したはず

の団長が野球も大学も辞めて

バンドに入れてくれって言って来た。

オレは「お前の今までのことは感謝

してるけど、こんな大事な時に初心者

なんて入れられるか。」

って反対した。他のメンバーは認めて

もオレは最後まで反対したしてたな。

でもリーダーがこっそり団長に

ギターの特訓をオレに内緒でしてて

気が付いたらメンバーになってた。笑

そのバンドは分裂したりメンバー入れ

替わったり結局解散しちゃったけど、

人の縁て凄いなってホント思う。

あんなヘッタクソだったヤツが今は

一丁前にギターソロ弾けてるし。

オレはお前に出会えて本当に

良かった。先がどうなるかは分からな

いけど、25年の人生の中で今やってる

音楽がオレは一番好きです。

それは、お前が応援団団長として

あの頃自分のことのように

必死になって応援してくれてた

その心そのものが今のLPBの音楽に

繋がってるんだと思います。

それだけじゃない。あの時リーダーが

お前にギターの特訓をしたこと。

なんで俺に隠れてまでしてギターの

特訓なんかしたのか。なんで

リーダーはお前にあの時CDを

あげたのか。過去を遡るとリーダーの

存在も凄く大きい。

今は路上ライブでチラシを配ってるだ

けのオッサン(笑)だけど、こいつもかけ

がえのない存在。

あの時があるから今がある。

武志誕生日おめでとう。

あの頃のようなきっかけをこの先も

沢山作って行こう!

どうかこれからもよろしく頼むよ。


晃一









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