生活スタイルの激変期
   30年代は、伝統的な和風生活から洋風で近代的な生活への過渡期の時代。
戦争による物資の飢餓的状態からようやく解放され、さらに高度成長経済にわき、近代的な道具が次々開発・出現し、人々はこれらに魅了され、買いそろえることを喜びとし、労働の糧としていたのです。
 
   それは、大量生産、大量消費へと日本の生活スタイルが大きく変わった時期でもあるわけです。
 このスタイルが定着した現在、日本の経済は、自転車操業状態です。
もう、壊れたら、直して使う。大事に使う。代々引き継いで使う。といった生活スタンスに戻れない世代になっています。
   旧来の日本スタイルを実体験で知っているには、もしかしたら60歳以上の方ではないでしょうか。
 
   泰淳・百合子共に、戦中・戦後の中、売れない作家生活の苦楽を共にしてきたわけで、その様子は日記以外の回想録の中に頻繁にでてきます。
 
   昭和44年10月3日の日記の記述「朝早いから、皆ぼんやりと硝子戸の外を眺めたりしている。私はコーヒーもとった。私もゆっくり外を眺めながら飲んだ。「お金があるっていいねえ」と、うっとりして言うと、主人は「自民党のおカゲよ」と、首をすくめて女言葉で小声で言った。そして、二人とも大笑いした。」まさに、激変した生活(武田家のみならず)に酔いしれていたわけで。この時点ではバブル崩壊なんて思ってもみなかったでしょう。
 
   この激変した生活の背景には、いわゆる東京オリンピックと公団住宅建設ラッシュがあります。
 高度成長を支える人材、その工業地帯への労働力確保、それによって多くの労働力の生活基盤を確保するために、多くのいわゆる公団住宅が建設されました。
 *現在の中国ではありませんが、低価格、大量生産を優先させたことによって産業公害が大きな社会問題として起きたのもこの時代です。
 
 公団住宅の建設も、以前記述した道路整備と同様に、短期間、低コストを求められました。それによって、規格化された様々なものの商品開発が行われることになります。
つまりシステム化のはしりです。
 
 従来の日本人の生活感覚・意識でしたら・・・たとえば、台所のシンク、従来は個々の住宅スタイルにあわせて、オーダーメイド。シンクの大きさにあわせてステンレス板(ステンレスは高額で高根の花)を加工したり、タイル加工したりしたものでした。当然、職人によるオーダーメイドなので高額。したがって、こまめに補修したりして、簡単なものだったら家族や器用なご近所が直して、大事に使用していました。そう、総DIYが当たり前の時代でした。
 
 ところが、公団住宅建設が始まると、低コスト、短期間建設が至上となり、台所シンクもオーダーメイドではなく、型枠を作り、プレス加工によって大量生産をすることによって短期間、かつ低価格化が図られることになり、いままで一般庶民にとっては高根の花だったものが手に入るようになり、実務的にも精神的にも潤うことになりました。
 
 日記の中からも、その新しい時代の様々なものが山荘に入りこんでいたことがわかります。
 
武田山荘はいつ建てられたか
 山荘に持ち込まれたものを考える上で、山荘がいつ建てられたかをしっかり確認しておかなければなりません。
 日記は、昭和39年秋から始まっていますが、日記のまえがきには、前年の38年の暮れ近くに完成したと書かれています。ただし、建物登記は、おそらく昭和39年8月19日です。これについては日記(S39.8.18)に書かれていますよね。
 この土地を選ぶ様子は、娘花が「泰淳・百合子の「武田山荘」を富士に還して」(平成19年8月「婦人公論9/7」)の中で話しています「下見に行ったときのことは覚えています。小学6年生でした。急に連れてかれて、母がガサガサ林の中に入ったり、おじさんとしゃべったり。」。
 富士観光開発が第2次分譲地の分譲を開始したのが昭和38年4月。花が「ガサガサ林の中に入ったり」と話していることから、(この分譲地の草木の成長時期から推測すると)この地に訪れたのは、早くても初夏になると思います。おそらく、この初夏にこの土地を決め、そして設計、建設を始めたわけです。つまり、5月下旬に土地の購入を決め、その年の12月上旬には完成していたことになります。
 
 この武田山荘の立地は尾根から西側に下がる崖の斜面地で、建物を建てるためには造成工事を行う必要があります。現況をみても、切り下ろした崖沿いの東側と北側は石垣で補強してあり(この補強工事は、後年に行ったもので、日記(S39.8.9)「浄化槽のまわりから庭にかけて家をとり囲むような石垣を・・」のことと考えられます)、西側は大きく開放されているものの三方は崖に囲まれたすり鉢状の土地です。(南側の斜面については、日記(S40.11.12)「南隣の庭のように、斜面の勾配のきついところに丸太を入れて段々を作ることも頼んでおく。(南隣との境界は、斜面中腹にある)」
 
西側の斜面から門方向へ(H25.3
イメージ 1
庭の溶岩等は解体時に動かされていますので目印にはなりません。
              (参考)
イメージ 2
 
西側から南側斜面方向(H25.3
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門からの坂から西側方向(H25.3
イメージ 4
西陽がもったいないという記述が頻繁に出てくるのがわかりますよね。
 
・・・これらの写真、シリーズの最後に使おうと思っていたんですよね。(^v^)・・・
 
 山荘を建てて約30年経った様子が「日日日記」(H4.7)に書かれていますが、東側の崖面には、北隣のT氏が植えたスズ竹が敷地内に入り込みうっそうとしています。しかし、日日日記の時には大きく育ってしまった庭の赤松の木姿は1本も見あたりません(富士日記の時は草の庭だった)。
 
 この時期、この場所では建築確認申請が不要で、手続き期間が不要であったとは言え、崖面を切る造成工事もあり、基礎コンクリートの打ち込み(流し込み)後の養生期間も少なくとも1カ月は必要だったと思われるし、さらに暖炉造作もあるわけだから驚くべき速さで建ち上がっている。この2次分譲地内であっては1,2を争う時期に建てられたと思われます。まさに花との見学、即決という状態で購入したのだと思います。
 
 ということで、建物に付随する設備関係については、昭和38年時点で販売、流通していたものを使っていることになります。

追記:20180114
 武田山荘の場所をお知りになりたいというコメント等がありますので、別荘内を知っている方ならわかるように記述したいと思います。
 別荘管理事務所 前のメイン道路を富士山方向に、そして富士レイクサイドカントリー倶楽部脇を西側に走ると、目印となるテレビ塔が左にあります。そこから急な坂になるのですが、過ぎて右側に入る4本目の路地(幾分谷状部分が路地になっていることが多いのですが、この4本目の路地は尾根部分に造られています。)ちょっと変則的な四つ角なのですが、その尾根状になった路地に入ります。
メイン道路はここから一気に坂道になります。
イメージ 5
ここを右に入ります。

右に曲がって、おそらく2画目の場所が、旧武田山荘跡地です。
現在、跡地に入る入り口にはチェーンがされています。最近施工されたようですね。
この入り口から敷地へは坂道になっています。
イメージ 6
この部分に、あの鉄扉の門があったのでしょうか。

メイン道路の坂道を下がったところから旧武田山荘跡地方向を写したものです。
左側の水色のお宅の東側崖面中腹に建物があったはずです。
ですので、山荘のデッキからは美しい夕日が見られたはずです。日記にもその辺が書かれていたところがあったかと思います。
イメージ 7