自宅、赤坂から山荘までの経路、日記が書かれている時代は、高速道路などのインフラ整備がどんどんできた時代ですよね。
なので、自宅から山荘までのルートも色々変わっているし、立ち寄り場所も変わっている。
 道路マップを広げながらそのルートを見てみると面白いです。
 
 最初は、ひたすら国道20号、いわゆる甲州街道を通って、東京都と神奈川県の県境、大垂水峠(S39.7.24ここでパンク)を通って相模湖。桂川沿いに走って大月駅でお弁当購入。そこから国道139号で富士吉田、そして、富士スバルラインに乗って御胎内入口から脇道に入って別荘地に入り、富士レイクサイド倶楽部、テレビ塔を通って別荘入り。3時間ちょっと掛かっていますね。
 
 国道246号経由は、昭和40年5月8日が初めて。
「・・・河野道路を通ってみる。大橋から三軒茶屋まで、みちがえるほど、幅の広い道になった。・・・溝の口を過ぎて松田まで、有料道路のようなすばらしい道。100キロで走り続けても、白バイもついてこない。・・・・山北、御殿場あたりで重量トラックが多くなる。・・・」
これは高度成長内閣、いわゆる第3次池田隼人内閣時の建設大臣(現:国土交通省)であった河野一郎(河野太郎の祖父)が陣頭指揮をとっておこなったわけですよね。この国道246号は東急田園都市線と並行するのですが、主たる目的は、マイカーブームによる道路の渋滞、トラック等の流通関係への影響が出てきたので、脇海道として国道246号が急ピッチで整備されているんですよね。
 江戸時代、国道246号は矢倉沢往還といって東海道の脇海道として整備されていたので、それをうまく利用したわけですね。
 
 この国道246号経由の日記は、今日は御殿場まわりでとか厚木まわりでという書き出しで始まりますね。
 このルートは、途中の場所が書かれているので、それらをまとめると・・・
 赤坂6丁目の自宅から、六本木通りに出て、渋谷駅近くで国道246号に乗り、ひたすら下って来たと考えられます。
 赤坂-溝の口―松田―山北―御殿場―籠坂峠―山中湖―富士吉田―富士スバルラインor鳴沢村―山荘というルートですね。
 しばらく、国道246号経由が続きますね。
 
このルートを利用する理由は・・・昭和42年11月26日の日記で「厚木まわりは、大月まわりより事故は少ないのだが、今日は3度見た。」と書かれていますし、夫泰淳も中央高速道路がきらいらしい大岡昇平に対して、「・・・この道路(中央高速道路)が開通する前の、河口湖に達するまでの神経のつかれが骨身にしみているからである。第一、学童の通学時間、これを避けなければならない。おばあさん、おじいさんがよろめき出てくる危険もあった。それに自転車。相模湖へ下る途中の大だるみ(大垂水峠)付近は曲りくねった急傾斜で、トラックの運ちゃんにどなられる。上野原のドライブインの前では、停車中、追突された。トンネル工事は完成しないし、崖側の路はくずれるし、それに出水があると、センタク板と泥池を走りぬけるのがむずかしかった。大月までたどりつくとホッとするが、それから先、富士吉田までが、途中の小さな町々の道はばが時々急にせまくなり、油断がならなかった。それらの心配が、すべて消え失せた。・・・・そのかわり、午前4時に女房を叩きおこす。・・・・高速を出てから東京の自宅に着くまでが不安だから、4時起きときめたのである。」(S45.1「別冊文芸春秋110」=「武田泰淳全集16収録」)と書いていて、危険性の少ない道を選んだ末のルートだと言うことがわかりますね。ついでに朝早く出発する理由も。
 
山荘に向かう中で、ローカル的な場所があります。
 「松田ランド」S41.12.6が初見)・・・これは、国道246号沿いの神奈川県足柄上郡松田町にある寄(やどりき)入口交差点近くにあるにある富士急湘南バスの停留所で、簡単な飲食店と松田ランド発のバス停車地となっているようです。
 「野鳥園」(S40.10.29が初見)・・・いくつか記述から、静岡県と山梨県との境、籠坂峠に近い静岡県側にある施設のようですが、残念ながら不明です。古いガイドブック等も探したのですが、見つかりません。知っている方がおられましたら教えてください。日記から見える風景は・・・①有料施設、②野鳥園の中に野鳥籠施設がある、③野鳥園の上のスケートリンクがある、④入口にそば屋(レストラン内にあるかも)がある、⑤噴水がある池がある、⑥近くにゴルフ場がある。・・・・こんなに情報があるのにわかりません。ただ言えることは現在ない。ということだけです。
 「大箱根」(S.42.7.2初見)・・・愛犬ポコがトランクの中で死んでいるのがわかった場所です。「松田の食堂より手前に新しくできた「大箱根」というドライブイン・・・」という記載があります。ネット、地図等から拾うことはできませんでした。厚木-大箱根-山北(S42.9.23)、厚木-大箱根-秦野(S43.1.4)という記述があることから伊勢原のどこかかもしれません。
 
 この国道246号まわりでの変化は・・・東名高速道路が東京から厚木まで開通したことですね。昭和43年4月25日開通日に利用していますね。国道246号の瀬田の交差点を右折して乗ったと書かれていますね。自宅から東京ICまでひたすら国道246号を走ってきていますが、昭和43年の時点では国道246号の高架に首都高速3号線の工事が急ピッチで行われていたはずです。
 首都高速3号線の全面開通は昭和46年12月21日。昭和47年5月10日に久しぶりに東名高速で山荘まで来ていますが、この時は首都高速3号線谷町から入って東名高速御殿場ICS.44.5.26開通)、そして山荘まで来てますね。約2時間で着いています(S43.8.23花が東名高速の工事現場を撮りたいので松田-山北をゆっくり走った)。
 
 念願の中央高速道路が昭和43年3月17日、調布IC-河口湖ICまでつながり、早速3月24日に利用していますね。中央高速経由でも約2時間。
 
 追加】
武田泰淳「目まいのする散歩」の中に次のような記述がありました。山荘から赤坂に帰る時は、箱根を通って国道1号経由で帰宅していたようです。日記の記述は往路。
「・・・自動車用道路がなかった頃、車で赤坂のアパートから富士山の山小屋へ行くのに、往きは甲州街道を下って、大月から富士急行電鉄の線路に沿った道を富士吉田まで、そこから山に入って目的地につく。帰りは富士吉田から山中湖、籠坂峠を越え、御殿場へ出、箱根を抜けて国道1号線を上って赤坂へ戻るという習慣にしている・・・・・」