幕末、ときどき伊東甲子太郎と御陵衛士

幕末、ときどき伊東甲子太郎と御陵衛士

HP「なるほど!幕末」と「誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士」(1999年9月開設)管理人ヒロの備忘録。

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「今日の幕末京都」は元治2年1月30日~2月12日までUPずみです。
 
老中阿部正外・本庄宗秀、上京にともなう京都のみなさんのあんなこんなが面白いです。そして、慶喜に酔っぱらわさせられて、本当の使命を早々に白状しちゃった本庄宗秀とか、容保に追及されて、本当はいやいや上京したと愚痴っちゃう阿部正外とか・・・今回の上京をしかけた(らしい)老中水野・諏訪・牧野あたりが、どこまで本気だったのか疑うレベルです。やっぱり、「不印」な二人をダメ元で送ったんですかね???
 
あと、久々に、島津久光の使いで大久保一蔵(利通)が登場します。幕府の天狗党処分を耳にして「滅亡の表れ」だと日記に記しています。
 
◆1/30(2.25【京】容保、将軍上洛を促すための東下願いを朝廷に提出
◆2/1(2.26)【京】守護職容保の東下願い勅許/【京】松平容保、正親町三条実愛と「両敬の因」を結ぶ
◆2/2(2.27)【京】【京】会津藩公用人倉沢右兵衛、中川宮に、容保下向の間、浮説に同様せぬよう頼入る/二条関白、中川宮の要請を受けた肥後藩上田久兵衛の入説により老中参内までの容保の東下猶予に同意 
・◆2/3【京】 容保出立延期の御前会議。会津藩、出立延期を承諾。
◆2/4(3.1)【京】老中の上京につき、容保の東下のための暇の参内中止/容保東下猶予の内旨伝達【敦賀】天狗党の処刑、始まる
◆2/5(3.2)【京】老中本庄宗秀の率兵入京【江】幕府、大目付駒井朝温・目付御手洗幹一郎に長州藩主父子の江戸護送を命ず/五卿警衛五藩に、三条実美等の江戸護送を命ず/征長総督徳川慶勝に、速な出府を命ず
◆2/6(3.3)【京】二条関白、中川宮に朝議の「紛転」を告げ、早々の参内を求める/本庄宗秀、慶喜に対し、将軍上洛中止・上洛督促の勅使下向の際の辞職の幕議決定を告げ、幕兵による御所守衛と慶喜・容保・定敬東帰実現の使命を述べる。
◆2/7(3.4)【京】老中阿部正外の率兵入京/一橋家黒川嘉兵衛、中川宮に慶喜がききとった老中本庄宗秀の使命等を伝える/本庄宗秀、御所奥向に贈賄工作を行う。
◆2/8(3.5)【京】老中阿部正外、容保と会し、速な東下・滞府の上の将軍輔佐を促す/六条有容、中川宮への書状で、大原重徳の主張に二条関白が困っていると知らせ、「強キ計カ御為トモ不存」と述べる
◆2/9(3.6)【京】久光の使者小松帯刀・大久保一蔵、中川宮に謁し、参勤交代停止の朝命を請う。金100両献上
◆2/10(3.7)【京】老中本庄・阿部、所司代松平定敬を呼出し、将軍上洛不可能・征長総督徳川慶勝の速やかな東下を朝廷に達するよう指示。定敬、将軍の為にならないと断る/朝議、両老中を15日に召して上京の趣旨を尋問することを決定/孝明天皇、関白以下に老中からの賄賂を受領禁止の沙汰。
◆2/11(3.8) 【京】中川宮、越前藩に老中上京の詳細を語り、帰国の猶予・助力を求める。また、尾張藩に徳川慶勝の帰国の勘考を求める。【京】中川宮、会津藩主松平容保に東下宜しからずを申し入れる【京】薩摩藩士大久保利通(一蔵)、近衛前関白父子に参勤交代停止の朝命を内願。【京】一蔵、日記に、幕威復活の「暴意」を記し、天狗党処分の「苛酷」を「幕滅亡の表」と批判
◆2/12(3.9)【京】老中阿部正外、容保に、上京の使命は実現不可能だと思うが、老中水野・牧野の命で仕方なく上京したと明かす】会津藩公用人小森久太郎、中川宮に容保東下の意思を回答する/広沢富次郎、中川宮訪問【江】幕府、大目付駒井朝温を罷免・差控を命ず。

元治1年1月29日の続き、老中本庄宗秀と阿部正外の率兵上京関連をUPしました。

松平春嶽が近衛前関白にあてた手紙と薩摩藩江戸留守居添役柴山良助の報告書です。
 
柴山良助の報告書によれば、率兵上京中の本庄宗秀・阿部正外は、このころ、「御不印(ふじるし)」と噂されていたようです。どうやら阿部は前回の上京で将軍上洛を断りきれなかったのが響いていて、本庄は「少々御調子合」が「可笑」しく、同役から「軽蔑」されていたんだとか。権勢を誇る老中水野忠精・諏訪忠誠に上京を押し付けられたとか。また、「御不印」の二人を上京させるくらいだから、水野・諏訪としては阿部・本庄の上京目的(柴山情報では慶喜連れ戻しと将軍上洛中止)が果たせれば幸い、ダメなら降格させよういうんじゃないかとも勘繰られていたそうです。柴山自身も、両人は「御不印」なので朝廷の意に反することを謀るような気遣いは薄いとかいってるし。この二人、さんざんないわれようです。
 
それから、実は、この柴山は、閑居中の勝海舟の日記にちょくちょくでてきます。前年、勝に会ってほれ込んだ西郷が柴山に指示したんでしょうか??
 
「今日の幕末京都」

元治2年1月29日、UPしました。

 
一橋慶喜、尾張の主張する有志諸侯召集の根回しにいったん賛意を示したはずなのですが、いざ尾張藩が朝廷に内願すると、会津藩・桑名藩に同調して「諸侯召不宣」の建言、しかし、その数日後の1月28日には慶勝に直談判されて「それしかないと思ってた」え?とまたまた諸侯召集に賛同するなどふらふらしてました。そして、29日、会津藩の必死の入説により「そこまでいうなら」と、またまたふらふら・・・。結局、諸侯召集案はとりやめとなりました。このふらつきはなんだったんでしょう。あるいは、こういうところが、「二心殿」とあだ名されたらしい所以??
 
 
実は、1月29日は、在府の薩摩藩士柴山良助が、幕府による慶喜の江戸連れ戻しについて探りえたことを報告しているのですが、ちょっと長いので分けてUPします。
「今日の幕末京都」は元治2年に入り、1月1日~28日までUPずみです。征長軍が撤兵したので、ようやく京都中心に戻りました。京都では長州処分討議・決定のための有志諸侯召集をめぐる尾張VS会津のつばぜりあいが面白いです。
 
征長総督府から報告を受けた幕府は慶勝の策は手ぬるいとして、江戸で長州処分を決定することにし、将軍進発も中止します。そして慶勝には長州藩主父子と三条実美を江戸に召喚することを命じて、対立。慶勝には上京せず直接参府して報告せよとも命令したのですが、慶勝は朝命を重んじて上京。しかも、長州処分は(征長)有志諸侯を京都に集めて話し合いたいと朝廷に内願(ここでも幕府の方針と真っ向対立)。慶喜も当初は同意しますが、この動きに猛然と反発したのが会津藩。外様を交えた諸侯による長州処分討議・決定は、将軍への大政委任を有名無実化するからで、容保自らが東下して将軍上洛を実現させ、幕府主導の長州処分決定を実現させようと運動中です。一方、江戸からは、前年に続いて、慶喜の江戸連れ戻しのために、老中阿部正外と本庄宗秀が率兵上京中です。
 
諸侯召集については、慶喜は尾張藩の入説されると同意したと言い、会津藩に入説されれば反対に転じると・・・ふらふらしています。そもそも、尾張藩は諸侯召集周旋をするにあたって肥後藩主弟長岡良之助と薩摩藩士西郷吉之助の書状をもってまわっているので、慶勝と西郷の関係を「芋によい、芋の銘は大島」と勘繰っている慶喜が、尾張藩の周旋する諸侯召集に本気で同意したのか、よくわかりません。自分が主導権をとれば薩摩藩の思うようにはさせない自信があったんでしょうか。しかも、慶喜は江戸の幕閣ににらまれて危うい状況にあり、天狗党の処分にも口を出さなかったくらいなのに、ニ老中の率兵上京が間近に迫る中、さらに嫌疑を深めるようなことをするのも不思議です。まさか、前年、小松帯刀にそそのかされた諸侯会同による政変を考えていたとも思えないですし・・・。ナゾです。
 
「今日の幕末京都」元治2年
◆1/1【広島】征長総督府の幕府への使者、海路江戸へ
◆1/4【京】中川宮・一橋慶喜、征長総督徳川慶勝の帰京を「残念」だと述べあう【芸州】征長総督、広島出立/幕府の上使、行き違いで到着/
◆1/8【江】老中松前崇広帰府/【越前】春嶽、山階宮へ書を復し、将軍の急速上洛による国是決定が急務であると説く。/春嶽、伊達宗城へ書を復し、朝幕融和のためには、有力諸侯召集は将軍上洛後にすべきと述べる。【京】この頃、尾張藩士若井鍬吉、有力諸侯召集につき、一橋慶喜及び近衛忠房の同意を得る (これに関連して元治1年の諸侯召集関連をup
◆1/11【江】征長総督使者及び大目付永井尚志、江戸着【姫路】慶勝、上京せず急遽参府せよとの幕命に接する
◆1/15【江】幕府、長州処分の江戸での決定&将軍進発延期を布令
◆1/18(2.13)【京】将軍家茂に長州処分のための速やかな上坂の勅、征長総督徳川慶勝に暫時滞留の朝命/常野浪士追討軍総括田沼意尊、天狗党受取のため上京。
◆1/19【京】禁裏守衛総督一橋慶喜、幕府に天狗党を引き渡しを奏上【京】中川宮・上田久兵衛、二老中上京情報を入手【坂】茂昭、着坂。尾張藩士若井鍬吉、越前本陣を訪ねて諸侯召集の首尾を語る(二条関白・中川宮・会津は同意せず【江】老中本庄宗秀、江戸出立
◆1/24【京】征長総督徳川慶勝、着京。諸侯召集を朝廷に内願/会津藩公用方広沢富次郎、容保東下の決意を中川宮に知らせる/会・桑公用人(小森久太郎、野村左兵衛、外島機兵衛、倉沢右衛門、森、岡本)、一橋邸訪問/肥後留守居上田久兵衛、一橋家臣川村に慶喜の諸侯召集を批判/【肥後】藩主弟長岡良之助(細川護美)、島津久光に書を復し、有力諸侯召集周旋のための「かりそめ」の上京は困難だと述べる
◆1/26【京】徳川慶勝、藩士田宮如雲を会津藩に派遣&会津藩公用人野村左兵衛を呼んで容保東下中止を説得させる【京】肥後藩上田久兵衛、六条有容から、25日に一会桑から諸藩召集不可の建言があり、容保東下もとりやめになったときく/加賀藩士、越前藩士に、両老中上京の趣意は、諸政委任、慶喜のこと(召喚)、兵庫開港かとの憶測を述べる/
◆1/27【京】所司代松平定敬に、18日の勅に従った将軍上坂(or上洛)の朝命をかさねて伝達
◆1/28【京】慶勝、慶喜に長州処分のため諸侯召集を求める。慶喜同意/会津藩、尾張藩に諸侯召集猶予を申し入れる