何年か前のこと、アバディーンの友人の家に泊まっていたとき、夜明けに眼を覚ました。

ふと窓の外を見ると想像を絶する美しさの空が広がっていた。遮るものが何もない広々とした地平線から太陽の光が少しずつこぼれ出てくる。

その壮大さに見とれた。ベランダに出て飽きずに眺めていた。凍えそうになるまで外にいた。(冬だったのだ)

そういう時、私は生きている喜びを感じる。神という存在がこの世にあるのを感じる。その存在とつながっているのを感じる。

本当にそれを感じることのできる瞬間というのはあまり多くはない。でも昔の生活を捨ててフィンドホーンに行ってからのほうがずっと多いのは確かである。

そういう瞬間を持てただけでも本当に素晴らしいし、感謝の念でいっぱいである。だってそういう瞬間を持たずになんとなく生きて死んでしまう人たちもいっぱいいるはずだからだ。

フィンドホーンのクルーニーヒルカレッジに住んでいたときは、冬になると朝焼けが楽しみだった。スコットランドの冬は日の出が遅い。ちょうど朝食の時間のあたりに素晴らしい朝焼けになっていることが多かった。

自分の部屋に走っていってカメラを持って戻りシャッターを切る。ちょっとでも遅れるともう色が薄れてしまっていることも多かった。
Findhorn Dec 2009 069

日本では見たこともないような素晴らしい空を何回も見た。本当に飽きない美しさと壮大さだった。

生きている喜びは自然だけではなく、人間同士の触れ合いによっても感じることができる。誰かと思いがけなく心が通じ合ったとき、一緒に何かを楽しむことができたとき、本当に心が高揚し、震えることがある。

あるときサタデーホームケア(土曜の朝の大掃除)のあと、ぐったりして階段を下りようとしていると、同じく疲れた顔の知り合いの若いフランス人の男の子と出合った。

とにかく掃除が済んでほっとしていたので、私はふざけて彼の背中に飛びついた。すると彼は私をおんぶして階段を降り、そのまま走って外にでてしまった。

よくわからないがそのとき2人の波動がぴったりあったのだと思う。掃除に疲れてなんかとんでもないことがしたかったのだ。

私はびっくりしたがそのまま彼は笑いながら私を背負ったまま、前庭を走り回った。他の人たちはびっくりして私たちを見ていた。

2人とも大笑いしていた。やっと彼がとまったときは二人とも笑い疲れていた。忘れられない思い出である。

あの時も生きている喜びを感じた。同じ瞬間は二度とない。それがわかっていてその瞬間を楽しんだ。

きっと彼も同じように感じたと思う。本当なら接点なんてないはずの二十歳そこそこの彼と私があのとき同じ喜びを分かち合っていたのだ。

そういえば、彼がクルーニーを去ってから彼のお母さんが「あの子にとってあなたがどんなに大切な存在だったかあなたはわからないでしょう。本当にあの子のためになってくれてありがとう。」と感謝されたことがある。

何も特別なことしなかったのにとちょっと恥ずかしかった。別にロマンチックな意味ではない。彼にはちゃんと愛しているガールフレンドがいたのだ。

自分が誰かの役に立てたというとき、やっぱり生きている喜びを感じる。

そういう純粋な瞬間をもっと多く持ちたいと思う。日本に帰ってきてから、そういう瞬間がほとんどないのが悲しい。

どこにいようとそういう生きている喜びを感じられるようになりたいが、今のところ、朝起きてビルの谷間に切り取られた青空を見てささやかな喜びを感じるのが精一杯である。