4回に分けて(なるべく今年中に)
中身をご紹介しますね♪
まず表紙を開いたところはこんなかんじ。
隠してきた貴様の本性を呼び覚まし
スランプに陥った作家が
殺人を犯し・・・
原作を盗む。
卑劣な男の
人生を賭けた賭博!
その最終巻-
盗まれた本 3
9月中発行予定 !!
【ごあいさつ】 プロデューサー チョン・ユラン
アンニョンハセヨ。演劇 『盗まれた本』 を観覧にいらした皆さまに感謝申し上げます。
2013年2月15日、ユ・ソンドン監督から、映画のシナリオとして書かれた原作 『盗まれた本』 を受け取った日です。それから約1年6か月の準備期間を経て、2014年8月に演劇 『盗まれた本』 は忠武アートホールの小劇場で成功裏に初公演を終えました。翌年には東洋芸術劇場3番館で再演、そしてまた今年、忠武アートセンターに戻ってまいりました。
初めて原作を読んだ時の記憶は今も鮮明です。時の経つのを忘れるぐらいどんどんページを進んでいき、まるで頭をガツンと打たれたような奇妙な衝撃に包まれました。
「そうよ。面白い話はいくらだってできるわ」そんな思いで 『盗まれた本』 は私に、新鮮な刺激として迫ってきました。
登場人物を圧縮し緊張感を極大化する2人劇に変更し、ソ・ドンユンの視線で時の流れに沿って進みつつ犯人を暴いてゆく原作の順序を変え、シナリオではラストシーンにあたる監禁シーンを現在に持ってきて話をスタートさせました。そこから過去を振り返りながら展開する手法を取り、すでにすべてを知っている人物であるチョ・ヨンラクが劇をけん引する主要人物として浮上しました。
今年の公演の特徴としては、ネット漫画として連載され単行本も発行された漫画 『盗まれた本』 のイラストを活用し、One Source Multi Use を具現化させると同時に視覚的な効果を強化しました。致命的な魅力をもつ原作をくださったユ・ソンドン作家、それに一層の多彩な色どりを添えてくださったイ・ギュヒ映像作家、惜しみなく協力してくださったハクサン文化社のみなさまに感謝申し上げます。
演劇 『盗まれた本』 は欲望に憑りつかれた一人の人間の姿を通して、あらゆるものの価値が物質に置き換えられてしまったこの時代の断面を見せようとしています。はたして何を守って生きていくことができるのか、悩まずにはいられない昨今であります。観客のみなさまにも我々と苦悩を分かち合い、共感いただけますと幸いです。
創作演劇の可能性を信じ、先に手を差し伸べてくださった忠武アートセンター関係者のみなさまに感謝致します。再演のたびに密度を濃くしてくださるピョン・ジョンジュ演出家に限りない信頼と感謝をささげます。そこへ共に力を添えてくれた愛すべき我らが俳優ソン・ヨンチャン、パク・ヨンウ、パク・ホサン、チョ・サンウン、さん。2組のペアの初舞台を観た後にこれを書いています。私たちの作品は俳優さんの手によって完成されました。息の合った演技に、心から感謝します。
つねに厳しい条件の下、情熱と誠意をもって作品に没頭してくださった全スタッフと文化アイコンの仲間たち、本当にありがとう。また、いつなんどきも私の支えになってくれる大切な家族に、たゆまぬ愛情を送ります。
『盗まれた本』 の公演は続いてゆくでしょう。
来年も再来年も、さらにずっと先までも、進化し続ける作品とともにある喜びを分かち合えることを期待します。
劇場に足を運んでくださった観客のみなさまが私たちの希望です。
より良い作品を作り、知らしめるために、一層の努力をいたします。
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他人の容貌と若さ。他所の人の家と車。誰かの彼女。誰かの夫。
そして、自分にはない卓越した才能をもつ人間・・・
大多数の人は 「嫉妬の対象」ではなく 「嫉妬の主体」 になる。
ともすれば我々の人生は他人を妬み、嫉妬の対象を追い越すために身もだえし続けているうちに、ある瞬間ふっと終わってしまうものなのかもしれない。
もしもあなたに、嫉妬して止まない相手そのものに「なれる」チャンスが訪れたとしたら、
妬み続けてきた相手の人生を、あなたが代わりに生きることになったとしたら、
どうしますか? 今の人生を捨てて、その人の人生を生きますか?
『盗まれた本』 を経験すれば、おそらくこの質問に対する自分なりの答えをみつけることでしょう。
それが正しかろうが間違っていようが。
ただ、ひとつだけ言っておきたいことがあります。
行き過ぎた嫉妬は 「身体に悪い」
それも非常に。想像をはるかに超えて。
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3年目の公演です。
これまで4名のソ・ドンユンと4名のチョ・ヨンラクに出会い、
そして今また新しいソ・ドンユンとチョ・ヨンラクに出会う時が来ました。
彼らにまた出会えるということに私はとてもドキドキしています。
作家の手を離れた作品は、それ以上作家のものではない、と言われます。
私の場合、『盗まれた本』 を通してこの言葉を実感しました。
新たな脚色、新たな解釈、新たなニュアンス。
主に脚色を「やってきた」立場から、脚色「される」立場になり、最初はどこか落ち着かない気分でしたが、今となってはその「やられる」快感を覚えてしまいました。それもまともに。
この場を借りて 「演劇」 という新たな快感を覚えさせてくださった方々に感謝のご挨拶を申し上げたい。
年を取るにつれ、このような快感を感じるのは難しくなるばかりですから。
チョン・ユラン代表、イ・ジェジン理事、お二人のおかげで演劇 『盗まれた本』 は生まれることができました。
私も子の親、命ある何かを生み出すということ、育てるということの苦労と苦痛を少しはわかっています。
ほんの少し。産んでくださり、育ててくださって、ありがとうございます。
ピョン・ジョンジュ演出家。恥を忍んで告白しますが、私はあなたのファンになりました。二人で飲みに行きましょうとお誘いしたいのですが、坊主頭と白髪の男二人がそろって酔っぱらっている姿を想像すると、ちょっとコミカルにも感じられます。
素晴らしい作品に仕上げてくださってありがとうございました。
ソン・ヨンチャン、パク・ヨンウ、パク・ホサン、チョ・サンウン、さん。私の書いたセリフがあなたがたの口で語られることは形容しがたい喜びです。あなたがたの演技を見守っているときは、自分がかなりイケてる作家になったような錯覚を覚えます。
あ、それから、私も自分が演出する作品で、ぜひご一緒したいと思います。
イ・ギュヒ作家。3年にわたる連載の間、『盗まれた本』 のイラストを描くのに大変なご苦労でしたね。貴方の高い眼目のおかげをもって 『盗まれた本』 は一層優れた本になりました。ありがとうございます。
愛憎取り混ぜて、今では本当によい友達です。
そしてスタッフのみなさま、関係者のみなさまに。直接お会いすれば気恥ずかしくてうまく挨拶できないでしょうが、心の中ではこんなふうに考えています。『盗まれた本』 をみなさまの人生の一部としてくださって感謝します。
最後に、『盗まれた本』 を鑑賞されたみなさま、そして読者のみなさま。
それが良いものであれ悪いものであれ、貴方の反応を通して、私は私の存在価値を感じることができます。
そして、また何かを書く力を、いただいています。ありがとう。
【演出家の言葉】 ピョン・ジョンジュ
今年の初めに、某画家の代作(あるいは偽作)に関する論争があった
文化芸術の世界で意識的にも無意識的にも続けられてきた慣行が社会的な問題になった。
世論はばらばらに割れ、それぞれの立場でいろいろな主張がされた。明らかに詐欺だ、という声まであった。
某画家が渡した報酬の水準が問題となるだけで、現代芸術の観点からみて代作は問題ではないという意見もあった。この事件が起こったとき、私は当然ながら2年間作業をしてきた 『盗まれた本』 を思い浮かべたし、折しもこの作品が浮上した。
あの事件については、社会的合意にまだ至っていないようだ。それは誰かが言ったように我々の社会の芸術に対する無知と後進性のせいなのか、もしくはこの論争そのものが難しすぎるせいなのかわからないが、本質的には「権力」の問題だと思う。それが商品であれ芸術品であれ、重要なのはその制作、創作の権限が権力に集中されている現実ではないかと思うのだ。そしてその権力によって、また新たな欲望が育ち、その欲望を満足させるために権力を利用する現実は、結局のところその権力というものを手にするために手段と方法を選ばなくなる極端な行動までもいとわなくなる。
おそらく、『盗まれた本』 の中のソ・ドンユンは、その権力を味わった経験をもつがゆえに、権力を失くしたときの虚無感も大きかったに違いない。そしてその虚無感の隙間を埋めるために、しなくてもいい行動を起こしたのだ。その過程において、権力の被支配階層であるチョ・ヨンラクは、不当な権力を振り回すソ・ドンユンのいけにえの羊となったのだ。チョ・ヨンラクのように権力を持たない者が、この社会で遭遇する結果は2つのうちの1つだ。
いけにえとなるか、あるいは権力に同調して手先となるか。
演劇 『盗まれた本』 でのチョ・ヨンラクは、第3の道を選ぶ。抵抗と復習である。
社会がどうしようもなく権力を中心に構造化されているとすれば、結局のところ権力に抵抗する唯一の方法は、不本意ながら「私的な仇討ち」しかない。
これまでの作業で「人間の尽きることのない欲望」という観点から 『盗まれた本』 を見てきたとすれば、今回は「権力の問題」として見るようになった。欲望と権力というのは外せないテーマだが、角度が変わると劇が違って見える。おそらくどんな演劇でも現実を映す鏡であって、現実と舞台はどんな形であれ連結しているのだ。
2016年版の観客のみなさんは、今回の作品をどんなふうに受け止めてくれるのか、非常に興味深い。
【制作によせて】 プロダクション・スーパーバイザー イ・ジェジン
にもかかわらず、また、創。作。
演劇を制作する環境が変わったと言われます。
芸術団体中心からプロダクション体制に変わりつつあると。
どういう意味でしょうか。単純に「劇団」がなくなり、専門の「制作社」が現れたということでしょうか。
これは単に演劇を作ってきた外形的な枠組みが変わりつつあるという意味ではなさそうです。
ひょっとすると演劇というものが「伝えたいことを舞台の上で直接上梓すること」だけを指すのでなく、「多くの人の共感を得るために行われる一連のあらゆる活動」までも含むようになってから生まれてきた言葉なのかもしれません。
厳密に言って、伝えたいことをしっかりと作品に込めて観客に伝達することも、
さらに多くの人々の共感を得ることも、昔も今も、どんな制作環境にあっても、難しいことには違いありません。
しかしはっきりしているのは、この時代に演劇を作るという作業には、それがどんなに小さな作品であったとしても想像されるよりはるかに多くの共同作業によって成り立っており、決して少なくない物理的な時間と費用、数多の人々の努力が注がれます。
したがって、「プロダクション」の存在意義は、「責任」と言えるかもしれません。「責任」という言葉のせいで興行的に成功もし失敗もするのが「プロダクション」です。構成員の誰かが責任を果たせなかったり、互いの「責任」を共有できなかった場合はもちろん、認識すらされないために生じる数多くのトラブルがあります。
ひとつの公演の興亡盛衰によってあまりに多くの人の幸福と不幸が左右されるため、興行成績が良かろうが悪かろうが過程と意味を分かち合えるよう責任を明確にしなければなりません。
そして「責任」は、一緒に作品を作り上げるために揺るぎない信頼で結ばれた新しい運命共同体に対するものでもあります。「今」が終わりではない、今上演している作品を将来にわたり上演しつづける道を見出す義務があります。それはまさに、我々のストーリーを、我々の役者の言葉で、我々の劇場において、我々の観客と分かち合うことに慣れるということです。劣悪な制作環境では興行成績を期待することも難しく、将来の計画を立てることもままなりません。しかし、少々劣悪な環境であっても、少しは不確実さの残る結果でも、多少不安な未来でも、我々の作品を立て、我々の役者の力を集結し、ひたすら我々だけの舞台で、我々の観客を生み出し続けることが、この地に末永く演劇というものを存続させ続ける貴重で唯一の方法であることを証明しなければなりません。
困難だ困難だというけれども、昨今ほど演劇をするのが難しい時代も他にないと思われます。
舞台でこそ見られるような事件が、実際の世の中のあちこちで起こる現代において、劇を作ることに何の意味があるのか、もう一度考えざるを得ません。
私たちが準備した舞台はとても小さく、素朴で、みすぼらしいものですが、
舞台は再び世の中を映し、より良き未来に導く道となることを望みます。
この想いのすべてを、お持ち帰りいただけるみなさまでありますように。
にもかかわらず、また、創。作。
観客のみなさまの、理由もなしに創作を愛してくださる想いは
我々のもつ言語に一層磨きをかけ、新しく、驚く舞台に置換させ、みなさまの意識を呼び覚まし、目と耳を楽しませてくれることでしょう。
スーパーバイザーの言いたいことはよくわかりませんが・・・
『盗まれた本』が漫画化されて出版されているのですね。
それがあの、舞台バックのイラストだったのですね。
それを知って早速注文しました。全3巻です。
忘年会に持って行けると思います。
参加できないみなさんへは、後日ブログ上でご紹介しますので、待っていてくださいね。