自分で居られる場所 | めぐるば日和

めぐるば日和

これでいいのだってバカボンのパパが言ってました。


23年前、高校2年生の時、イギリスのスラウというロンドン郊外の街に1年間留学していた。

16歳から17歳になる1年間。多感な時期にはじめての海外で様々な刺激を受け、中学時代には不登校児で周りの反応ばかり気にしていたおとなしい少女が、明るくオープンで自分をはっきり持つ別人に生まれ変わった。帰国時にはちょうど英語もだんだん話せるようになり、友達とも仲良くなってきていたから、学校の寮の前からヒースロー空港へのバスが経つ時、寮母さんや先生方に窓から手をふりながら、日本に帰りたくなくて、泣き叫んだ。また絶対イギリスに来ると誓いながら。

ダンナくんのロンドン転勤の話を聞いた時、あの時の乙女の呪いが効いたのかな、と思った。

当時の日本との連絡手段は手紙。電話代も高かったから、お正月にあけましておめでとうと家族に一度電話したことだけを覚えている。日本とは全く切り離された環境だったからこそ、イヤでも自立が促され、変化、成長ができたのだと思う。

そして今。2016年。

通信の世界は様変わりした。email、LINEやFacebook。手元のスマホから、インターネット回線さえあれば無料で即時に世界中と繋がれる。顔を見て会話もできる。

オンラインの世界では、何も変わらないつながりがある。さみしさはなかなか感じられない。

しかしジワジワと。

日本とイギリスの時差は3月終わりからはサマータイムで8時間。ほぼ反対。タイムリーに連絡できるのは午前中~お昼くらい。こちらの15時くらいから23時が、日本の23時から朝8時、連絡したいなと思う時間帯に日本のみんなは寝てる。

今日は満月。ロンドンへの旅立ちの日が満月だったからちょうど1ヶ月。

今日、ある勉強会にスカイプで参加するどうか、というFacebook上のトピックをきっかけに、私の中のさみしさ、喪失感が堰を切ってあふれた。涙が止まらなくなった。


日本で私は本当に自分の望むつながりに恵まれていた、と思う。

深く、本質的な話がポップにできる友。世界がこんなだったらいいねのイメージを共有する響き合う仲間たち。それぞれの場で世界を創造している憧れの存在。くだらないことでハラの底から爆笑できる友。言葉がなくてもその場でイメージを共に分かち合える存在。

望めば気軽に会うことができた。リアルに。

オンラインとは、違う。

夜中に眠れなくなって窓から外を見たら、雲の切れ間から満月がキレイにあらわれた。
満月を見つめながら、自分にウソはつけず。

とにかく、とにかく、つながりを失ったことのさみしさ、悲しさを嘆いた。プロセスを止めずに、ストーリーに同情もせず、ポジティブ逃げもせず、嘆き、嘆き、嘆き切る。とめどなくあふれる涙。


 

ふーーーーー。。

おとずれる、静けさ。

さみしかったんだねーー。

自分はもっとあっさりしていると思ってた。人間関係も一旦リセットされることですっきりするかなとも思ってたりしたし。ていうかそう言う自分もいるんだけど。新しい環境でも既に素敵なつながりもでき始めているしそれも純粋にうれしいんだけど。

ごまかしていた。平気なふり、気づかないふりしてた。こうして自分に嘘つき続けてきたんだなあ。


ふと、これって亡くなった人の意識に少し似てるのかなーとも思った。私は飛行機に乗れば会えるから、あくまで擬似体験だけど。やっぱリアルに会えないのはさみしいーーー!会いたいーーー!!!大好きなあなたに!


共に時間を過ごせることは、天文学的確率で奇跡的なことなのだとしみじみ思う。



満月にたずねた。

私はどうしたらいい?

そしたら、


「道はおのずと開ける」


と。

ふう。

そうだ。

自分で創ろ。自分で居られる場所をって思いついた。
いま。

ごまかさず。妥協せず。

自分を観る。他人のことのように。





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