38.

 

 係留の太い綱が船首と船尾側に何本か岸壁に固定されているのを、港の係員が手際よく外しだした。この巨大な船をこれらの数本の綱だけで固定されていたのかと不思議にも思うが(それでも見たことのない太さのロープである)この強固な綱を外さなければ船が自由を得ることはできない。そう屈強とは思えない男達が2人づつでその作業を担う。僕はこういう作業はポパイのような腕自慢の船員がやるようなイメージを持っていたが、そうでもないアンバランスが、かえって現代を感じさせている。

 さっきまで必死にこの巨大な船をつなぎとめていたピンとはられた綱はいつのまにか緩んでいて、それを現代のポパイ達は難なく、感傷もなく外し終わるとその綱は船へと巻き取られていく。

 一様に笑顔の人たちの一時の別れの挨拶が交互に掛け合われる中、汽笛がなった。まさかこの船が蒸気機関で動いているわけではないのだろうが、出港にはこの音が似合う。

 巨大な船は選ばれし客たちを乗せてこの世のつまらないことを全てこちら側に捨て、ゆっくりと平行移動をするように岸壁を離れだした。別れの挨拶は一段と多く、大きくなっていく。

 船はその声がお互いに届き終わるのを確かめながらにゆっくりと離れている。さきほどまでは見えなかった船と岸壁の間に、濃い青の綺麗とは言えない海水が存在を主張する。もう、この船には乗れないことを、降りることをしばしの間許さないことを厳しく教える。けれど船に乗る人も、見送る人もそれを口には出さない。それは当然にまた帰ってくることを信じているからなのだろう。

 

 見送る側から見る船の客達は小さくなり、服の色や仕草でしか判別できなくなりそうな距離まで船が離れた。もしもこの船に沙織が乗っていたとしても、そして今の今まで彼女が僕を見つめていたとしても、僕は彼女を見つけられないだろう。彼女は旅立ってしまったのだ。どうしようもないこの広い海が隔てた向こう側に、挨拶さえさせてくれずに。

 

 一様に笑顔の見送りのなか、なんの関係もない僕はどうしようもない喪失感にデッキの欄干に額を押し当て、長らくなりをひそめていた胸のなかでころころと転がる重い石が止まるのを待った。少しづつ、挨拶の声が小さく少なくなる。人の気配が少なくなる。誰も僕に気を留める人はいない。皆、幸せな思い出の時間をすごし家路へつく。僕もその中の一人のはずなのだけれど。

 

 視線を上げたとき、その船はすでに湾の外へと進んでいるようだった。もう、あの圧倒的な大きさの船ではなく、子供のころに浴槽に浮かべたおもちゃの船よりも小さなサイズに変わっていた。すべてが夢の中でのことだと悟らせるようにも思える船は現実の航海を始めた。その先にはどれだけの素晴らしい出来事が待っているのか、乗船客は期待と興奮の時間を過ごし始めたばかりだ。

 

 ここにいては何も変わらない、そう思った。ころころと転がる石は重くもその回転を止めている。しっかりと立てる場所にしか自分はいられない、そう思っていた。約束された平穏など一つもないことにおびえていただけなのだ。万に一つ不測の事態があの船に起これば、この幸せな一瞬はとんでもない悲しみに変わってしまう。けれど、船で旅立つ人は絶えない。

  

 携帯を取り出し、インナーフォンを耳に押し込み沙織の歌を流す。初めて彼女の曲を聴いた時に感じたあの、異世界に飛び込むような感覚はなく、ただ、ただ、彼女の天使のような優しい澄んだ歌声が身体に浸透していく。すでにあの船も完全に見えなくなった。ただ、この海のどこかにあの巨大さをもって勇敢に優雅に進んでいるのだろう。

 

 夏の夕暮れは終わり、闇の中に街の明かりやイルミネーションが平等に目印を与えようと輝きだした。それはもしかしたら幸せな方向ではないかもしれないけれど僕はそれを頼りにするしかない。僕はがれきの中から出ていかなければならない。それがどんな日常でも。ここに居続けてはいけないのだ。

 

 いつの間にか一人になったターミナルを出て、僕は一番明るい方向へ歩き始めた。まだ、売店は開いていて家族連れが飲み物やお菓子を買っている。多くのカップルがあちらこちらで昨日や今日や明日のことを話している。僕はもう一度深呼吸をした。重い石は姿を隠したようだ。

 

 また、いつかあのベンチに座って海を眺めようと思った。そして眠ければ横になるのもいい。目覚めたときには彼女の大きな笑う瞳が眼の前にあるかもしれない。

 

 夏がもうすぐ終わるのは、海のにおいを運ぶ風の心地よさで感じていた。

 

 

※Specialは改題して小説として書き直したあと再度UPする予定です。ずっと読んでいただいていた方、ありがとうございました。