絵描きノ卵 -2ページ目

愛とか好きとか大好きとか


小さい頃、というかつい最近まで


「愛」って言葉

小っ恥ずかしくて

書いたり口にしたりする事なんてなかった


「好き」の方がちょっと言いやすい

「大好き」はちょっと恥ずかしい



私の暮らす環境はとても愛に満ちていると思う

恥ずかしいけれどたくさん「好き」と言いたい


本当に好きな人たちには「大好き」と伝えたい

ひとりぼっちが好きなのは人といる時の温かさを知りたいから



父が酔ってベロベロになって頭をぶつけて意識を失って死んじゃうんじゃないかってことがあった


すぐに意識を取り戻して無事だった

本人は多分その時のことを覚えていないと思うけれど


壊れたロボットみたいに何度も「大好き」と言っていた

「何があっても家族を守る」と言っていた

途方もなく一途

期待でも執着でもなくただそこにあるのは愛だけなのだと思った


近くにいるときも遠くても私たちは愛で繋がっている


それはきっと家族でなくても

本当はみんな、みんな



私がここに生まれた理由

愛を受け取り愛すること




「寄り添う」2022年



私の好きなアイドルグループ

ハロー!プロジェクトの楽曲には「愛」という言葉がたくさん出てくる

多分そのおかげかとても身近な言葉となった「愛」



私たち

「愛のため今日まで進化してきた人間

愛のためすべて退化してきた人間」だね


アンジュルムの曲!「BIG LOVE」な彼女たちです






選択




「内なる森」2022年



1月入ってからだろうか

選択を余儀なくされる事態が多発しているような気がする。



これまで、やんわり選びきれずにぐだぐだ

複数のことを引き受けて無理をしたり

目の前の選択自体をなかったことにしたり

そんなことがよくあった。



仕事、展示、人間関係とか

うまくまわっていたかは別として

無理したけどなんとかやってこれた。

過ぎたことだからどんな記憶であれ

今の私と過去の私は解釈が違うから

もうあんまりわからないこと。



理想主義だけど合理主義・現実主義

本当にやりたいと思い描いたものは着実に形にしていきたい。理想がないと怠惰な人間で生きるのすら面倒。だから私は常に何か理想を抱いていたい。

理想の時点で曖昧だと形にするのも曖昧なまま。着地点がどこなのか。


そう、この着地点がわからなくなってしまった。

だから選択も曖昧。



絵を描いていくこと、毎年個展をすること

とりあえずこれを掲げている。

(個展に関しては無理に毎年って決まりを定めなくてもいいような気がしている)


それをして私はどうなりたいのかっていうのがいまいち定まっていないことに気がついた。


ただ絵を描くのが好きなこと

それに加えて人間とはなんぞや?この世を構成するもの、しくみを自分なりに表現したい。している。


これって着地点ない…

続けていくことでしかない。

どうしたいの?何がしたいの?って聞かれたら

私は私でいるだけだと答える。

そう答え続けること、相当ブレない軸が必要。

いつも出発点であり、すでに着地点みたいな。


色々相反していている…。

じゃあ続けていくことが理想としよう。

続けていくために何が必要か

資金、場所、学び(勉強・人付き合い・遊び)


あれ、なんか急にざっくりとした内容に(笑)

そりゃ着地点も見えないわ。選択もできないわけだ。

この3つを細かくして理想を打ち出して選んでいけば現実化できるんじゃなかろうか。


……………


そうこう理想をこねくりまわしている内に

私の筋道を無視して半ば強制的に用意される

選択肢「どちらか一つをお選びください。複数不可」みたいなのが、ここ最近のこと。



私を操っている上の人が呆れて用意してくれているみたいに思えてきた。そしてどちらを選択するかが正解とかではなく、きっと選択したほうが今の私が学ぶべき状況で、選ばないという選択肢はなし!



迷子上等!

あ、「内なる森」にかけていまする(・ω・)ノ

迷子も命と時間があれば悪くないよね。

とはいえやっぱり、はっきり決めるのは難しいなぁ。




あらためて自己紹介!


みさき と申します。

絵を描いています。



ちなみに自分のことはあんまりみさきって名前の人間じゃないみたいだな〜って思っています。


名前って大事ですよね。

でも私、人と親しくなるほどその人に名前があるのが変な感じに思えてくるんですよね。

ゲシュタルト崩壊的な?変ですよね?

普通逆じゃないですか?親しくなるほど名前大事なはずなんだけどな。おかしいなー



ハッ!話が逸れるとこだった。

こんな感じでちょいちょい話がずれますね。

ちょっと変わった人間の部類に入るそうです。

いつからこうなったんだろう。多分最初からで、みるみる本性あらわになってきているな。

変わり者と言われるのは嫌いじゃないのでいいです。



こちらのブログは私が中学1年生の頃に始めました。さかのぼること15年前ということになりましょうか…。時が流れましたね〜




「月日」2018年



そして高校3年生くらいまで更新していました。

写真やイラストがメインでしたね。

私は嬉しいことや悲しいこと、あんまり人に思うまま素直に話せない人でして…話しても思ってる10分の1くらいのテンションになっちゃって、煮え切らないのでこうして文章にしたり絵にすることで発散しております。ブログをやっていない間は手書きの日記をつけていました。

今もちょこちょこ書いています。



実家ではずーっとインコを飼っていまして(今も)好きすぎるあまり、インコ日記をつけようと思ったのがこのブログの始まりです。


セキセイインコ、コザクラインコ、オカメインコを飼っていました。今は犬もいます。毎晩インコをカゴから出して肩に乗せてTVを見たり水浴びさせたり、インコ本を買い漁ったり、インコ飼いさんのブログを見たり、動画を舐めまわすように見たり、という日々でした。


そんなインコ好きと好きな絵を描くことを組み合わせたブログで、そのうちアニメや漫画のお話やイラストの方が増えていくというような変遷は色々ありました。

何にしてもずっと絵は描いていますね。


ブログのタイトルが確か

「ほのぼのインコ日記」

「インコと私の夢日記」

「絵描きノ卵」

という変遷だったような…



恥ずかしい過去の記事は未公開にしましたが

そもそも恥ずかしいなら消して違うブログ開設しなよ、という話ですね。でも面白いのでそのまま取っておきたいのです。ちらほら過去の記事を残してありますが中高生なんで生温かい目で面白半分に見ていただけたらと思います。



そもそもこの今書いてる文章でさえもよくよく考えれば恥ずかしい。


15年か…

すごいな、私が中学生の時に生まれた子が

中学生になってるってことですよね。

アメブロがこんなにちゃんとずっと機能果たしているのもすごい。

なんだかいつの間にか大人になっちゃったな。

見た目あんまり変わらないです。

たまに中学時代の友達と会ったりsnsやり取りするんですが、変わらなすぎてタイムスリップしたみたいだと言われました。

小中学校時代が老けていたような気がするから、そのままの見た目で追いついて追い越しちゃった感じでしょうか。



ハッまた話が逸れてる!


さて本題

これから綴っていくブログは自分の描いた作品を取り上げて胸の内とか、作品に沿った話題など載せて行けたらいいなーと思っています。



紙だと捨てちゃったり失くすことあるので

データで残ってるのいいですね。

でも作品はいつまでもアナログでいきます!

一時期パソコンで描いてたのも懐かしい。



ゆるゆるやっていきますね〜

考える人



「魂とあたま」2020年


考えすぎたくない

本能のままに動けないの人間だけ


遺伝子に刻まれた本能も

宇宙との交信も抑圧している


どうして私たちには理性があるの?

でも、よかった

いろんな楽しみ方を手にしている

最初から知らなければそれはそれ



理性と情動・感情は対比的なものではなく

相互作用関係・並行関係から

意思決定を行なっている

二重過程理論


無意識と意識


圧倒的に無意識から形成されるものの方が多い

そしてそこには無駄がない


と判断するのは意識

認識ができること

意識があるから無意識の偉大さを知っている


無意識と意識も対比的なものではないのかもしれない


意識の延長が遺伝子に刻まれて無意識になるとか

無意識が意識化できるとか


何にしても美しさはどこにでも潜んでいる

美しいと判断することができるのも意識


無駄と思われたものに価値を見出すこともできる



考えすぎは認知を歪めていくことに繋がるかもしれない


間違った無意識が形成されていく


人間が自然の摂理に逆らうことなければ

じきに正され、また無意識に還っていくのだろう






生きること、絵を描くこと

「実からでたモノ」によせて




「陰」の自分と「陽」の自分がいる。


光を見たいなら影も見る

影があるから光の形が見える、逆も然り。


ちょっと傷つくくらいのことが怖かったから

心は内に篭っていた。

外へ出てみたら魅力的な景色が広がっていた。

傷つくことは次の景色見たさで

大したことはなく

どんどん外へ出向きたい自分がいた。


守られてばかりの植物より

野生に近い環境の植物が強いってこういうことか!

と思った。


知ることは栄養を摂り入れるみたい。

たまに拒否反応。

無知よりはずっといいのかもしれない。


摂り入れた栄養を使って作品は形づくられていき

手がかかるがその分、愛おしさも増す。


小さな粒が大切に積み上げられていく。

見えない粒子が集まって形を成し

見えるようになる。

見えないもの(存在の知らないものも含む)のほうが圧倒的に多いなかで

私は何を見たいのか、見えるようにするのか。


私たちの姿を形づくる粒子は絶えず循環し

毎日生まれ死んでゆく。


そしてその循環のために

食べることが私をつくること。

食べ物が食べられるようになるまでの

記憶も一緒に食べているのだとしたら

生き生きと大切に育てられたものを食べたい。


心を込めたものには

大きな力が宿っていると信じている

人が何かに対して想う力の可能性。


私の場合にそれを絵を描くという行為によって循環させていく。







「契りの場所」2023年