ジャッジしない

執着しない事を学びました

ただただ今を生きる

結果に執着しない


まず その日の朝

一本電車に乗り遅れたのですが

まず車外の流れる景色の竹林で

心洗われ

河津桜で心が晴れやかになり

最後は多摩川に白鷺が飛んで

着地した所で昨日の一日の

成功を確信したのでした。


先生は何事にも意味があると言って

その景色に気づくために

遅れたのかも知れないと言って下さり



失敗の心のリカバリーの様子が

昨日の一連の出来事が正に

そのまま映像になった気がしました。


元々 遅れると

今出るタイミイングがベストだった

意味があると思ってはいるのですが

(自分で出かける時間を設定して

人に迷惑をかけない範囲での事ですが)


切り替え力が

やっぱり 必要なんだなと

母親業をして以降は思っていて

漢字のドリルについては

沢山の種類が出ているので

一つ買ってダメだったらそれに

執着せずに

次の別な方法のドリルと言う感じで

彼の漢字が苦手に対処してきました。

自分で教材も作っていたし

発達障害の月一通う放課後デーでも

ここまでの教材作る人初めてって

言われました。 

  

多分マンション内での

リトミックの教材作りや

サブで教える手伝いしてたのが

面白くて苦にならなずにやってました。


なのでドリル最後までとか

特性に合わない執着はさせていなかった

一方


サッカー教室と

水泳は完結までやらせたのは

彼にとっては恨む出来事だったみたいですね。


スポーツと宿題に関しては

最後までさせるは執着したのかなぁ。  


あと

中卒発言もやめられいかもパー

高校を途中で行けなくなって

自主退学と言う名の放高になった事への

受け入れ難い気持ちと

世間からこれからずっと言われるであろう事への

免疫づけって気持ちもあって

強くあれと思う気持ちも強いですが


執着しないを実行すべき

向き合う問題でしょうね。


心が削られる問題ですが

今更 どうにもなりませんよね。