京都・光縁寺にある沖田氏縁者のお墓。
これは一体、誰のお墓なのでしょう?
私は新選組研究家ではなく、ただの一般人ですので、妄想たれ流しで大まかに考えてみたいと思います(笑)
光縁寺過去帳。
慶応三年四月二十六日、戒名「真明院照誉貞相大姉」、俗名「沖田氏縁者」が埋葬され、大阪の酒井意誠氏が墓参に訪れた、と書かれています。
ただし、沖田氏縁者は埋葬された時点でお墓が建てられた訳ではなく、長い間この過去帳に記帳されているだけの存在でした。
お墓が建てられたのは、昭和51年。
建てたのは沖田家や縁者側の親族ではなく、当時のご住職です。
・沖田氏は沖田総司?
研究家の菊地明氏によると、光縁寺に沖田姓の檀家はいないそうですし(「沖田総司の生涯」)、新選組には他に沖田承之進という方がいましたが、慶応元年に入隊して同年中に脱退しているので(「上洛者名簿」「取調日記」)、やっぱり沖田さんのことなんでしょうねー。
・酒井意誠って?
安政四年(1857年)生まれ。
櫛羅藩の山口勝元氏の次男で、明治四年に酒井家の養子となっています。(「沖田総司の生涯」)
ということは、この酒井意誠氏が墓参に訪れたのは酒井家の養子になってからなので、少なくとも明治四年以降…ですね。
では、沖田さんと酒井意誠氏の関係は?
池田屋事件の際に、負傷した隊士達が治療を受けたのは浜崎新三郎宅。そこは新選組の医療所なので、沖田も運ばれた。浜崎宅で治療の手伝いをしていたのが石井秩という女性。彼女は離婚歴があり、ユキという娘がいた。沖田は彼女と恋仲になり、慶応二年には二人の間にキョウという娘が生まれた。石井秩が病死すると、沖田と親交のあった酒井意章、キン夫妻が埋葬し、ユキとキョウを養女として引き取った。酒井意章は禁裏守護兵として京都に駐留していた。後にユキと結婚したのが意章の養子である意誠であり、墓の施主。キョウの方は奈良県御所町の磯田家に嫁ぎ、生まれた子供に貞司と名付けた。
これは研究家の川西正隆氏が、昭和54年11月号の「歴史と旅」に書いた内容です。
ところが!!
石井秩、ユキ、キョウ、奈良県御所町の磯田家、貞司など、こんなに詳しく固有名詞が出ていながら、このお話は定説となっていません。
川西正隆氏は、どなたからこのお話を聞いたのでしょう?
詳しくは述べませんが、川西正隆氏は過去に「沖田総司の母親の名前はミキ」事件があるので、失礼ながらこの説はスルーします。
続く。