前回からの続きです。

以前、沖田林太郎(沖田さんの姉・ミツさんの夫)さんの弟(?)は櫛羅藩・島田勝次郎さんで、沖田総司の親戚だというニュースがありました。

前述の酒井意誠氏は島田勝次郎さんの上司にあたるとのことですが、このニュースはその後の進展がなく、現在でも沖田さんの親戚だと証明されていないようです。

川西正隆氏の説と上記の説が確証ではなく、手掛かりにならないなら…

後は、これだ!(笑)
①勇先生有養女、気豪常佩刀、愛変於沖田総司之勇、請為妻把箕箒、総司固辞、女自槐、以刀刺喉、而不殊、得復生、後嫁人云。
「慎齋私言」

訳:近藤勇には養女がいた。気が強く、常に刀を佩びていた。沖田を愛し、妻にしてくれるよう願ったが、断られた。養女は懐剣で自らの喉を刺して自害するが、一命をとりとめた。後に他家に嫁ぐ。
※試衛館時代ではなく、沖田さんが京都にいた元治元年(1864年)頃のことです。

養女は、谷万太郎さん(近藤さんの養子である、谷周平さんの兄)の妻・スエさんの妹・コウさんと推定されるそうです。(「沖田総司」)
スエさんとコウさんの父親は岩田文碩という医者=養女は医者の娘

そして、もうひとつ。

②新選組の人達は、相当女遊びをしたようでしたが、沖田は、あまりそんな遊びをしなかった代わりに、京都で、ある医者の娘と恋仲になったのです。これは沖田も話していましたし、勇も、母(ツネ)へ話しているのを聞きました。しかし勇は、ある時沖田へしみじみと訓戒して、その娘と手を切らせ、何でも勇自身が口を利いて堅気の商人へ嫁人らせたとの事でした。沖田は、よく私へこの娘の事を話していました。ふだん無駄口ばかり利いている男ですが、この娘のこととなると、涙を落として語ったものです。
「新選組異聞」

太字になっている部分は、研究家の菊地明氏、相川司氏が「沖田の休息所に住んでいた女性であり、彼女が沖田氏縁者」との見解をしています。

このお話を語った近藤勇五郎氏(近藤勇の娘・タマの夫)が、養女と休息所の女性を混同してしまったのではないか、プロポーズを断ったのに泣きながら語るのはおかしい、とのことですが、私はこの説もスルーします(笑)

何故かというと
・確実に書かれているのは養女のことのみ
・②の「医者の娘と恋仲になった」=医者の娘で近藤さんの養女となったコウ
だと思うからです。
※養女がコウだと証明されなければダメですが…。

私の妄想(笑)は、以下の通り。

①については、沖田さんが養女を嫌いだったとは限らないし、プロポーズ以前から二人が交際していた可能性もある。
ただ、近藤さんの立場を考えて(近藤さんは養子の谷周平さんと養女を結婚させようとしていた)、結婚だけはどうしても出来なかった。

②については、養女が他家へ嫁いだ後も交際は続いていた可能性もある(笑)
嫁ぎ先にバレて離縁される。
養女死亡。
すでに実家は出ているし、近藤さんから養女は解かれているし、嫁ぎ先から離縁されているので、弔うのは沖田さんしかいない。

つまり…
沖田氏縁者のお墓は、近藤さんの養女のお墓だ!

明里さんだとか、旅籠茂里の娘・キンさんだとか、休息所の女性だとか、いろいろ候補が上がってますが、沖田さんと何らかの関係があった相手としてはっきり史料に残ってるのは、養女のことだけだと思うんですよね。

ですが、何度も言います、私の妄想です。

養女と不倫なんかしてたら沖田さんは士道不覚悟で切腹じゃないの?という疑問は、横に置いといて下さい(笑)

結局のところ、沖田氏縁者が誰なのか、新史料でも出てこない限り想像の域を越えません。

でも、例え相手が誰であろうと、毎日命がけだった京都で沖田さんに幸せな時間が少しでもあったのならいいな~と思っています。


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最近は以前よりかなりペースが落ちてきましたが、今年一年読んで下さり、ありがとうございました。

今年は大雨や地震など災害が多かったので、来年は何もないよう祈っています。

皆様、どうぞよいお年をお迎え下さい。