宮城夫婦のどこまでLOVE♡ラブするの! -2ページ目
人生の多くの時間を共有するパートナー。

長~い人生をともに生き、それぞれの人生に深く関わる相手は、まさに「運命の人」と言えるかもしれません。

私自身、人生の半分以上の時間を共にしたパートナー、彼女には運命めいた強い絆を感じています。

でも、出会った瞬間から「運命」を感じていたわけではないし、そんな人を捜していたわけでもありません。

たぶん、「この人は運命の人だろうか?」なんて考えていたら、今ごろは誰も選べずに品定めをしていたかもしれません。

運命の人かどうか?は結果であって、この人が運命の人だったんだな~と後から実感するもので、最初から分かっているのもではない、そんな風に感じます。

最初から決まっているから「運命の人」なんだろうけど、それが最初から分かっていたらかなりつまらない人生だとも思います。

 この人が運命の人かどうか分からない、どこかに本当に運命付けられた人がいるかもしれない

と、架空の「運命の人」に捉われて、目の前にいる人との関係を中途半端にしていたら、たぶん一生その「運命の人」には出会えない。

 この人が運命の人に違いない、これを逃したらもう出会えない。

というのも、目の前の人を勝手に「運命の人」に仕立て上げ、その人の存在がしっかり見えていない状態。

きっとその思い込みが成就する可能性は低いし、成就しても長続きはしないでしょう。

私の周囲で、結婚して幸せそうにしている人に、その出会いの経緯を聞いてみると、

 第一印象は最悪だった

 最初に会ったときのことは覚えていない

 お互い付き合っている人がいたので、何も感じなかった

 好みじゃなかったので眼中になかった

 ただ同級生だっただけ

というような、どちらかといえば薄~い印象か、ネガティブなものだったという方の多いこと。

 最初から運命を感じました!

 この人しかいないと思いました

 運命の赤い糸が出会わせてくれました

なんていう話はまず聞いたことがありません。

 一期一会

出会う人は、誰もが自分の運命関わる存在です。

それが深くなるも、一瞬出会って二度と出会わないのもある意味自分ではコントロールできない、それこそ運命で決まっているものなのかもしれません。

そうなのだとしたら、運命の人を探すことより、目の前で関わっている人と本気で関わることが何より大切なことなんじゃないかと思うんです。

そして、その出会いがこれからどんな展開になっていくのかを、あらゆる可能性を制限せずに受け入れていくこと。

それこそが人生の楽しみなのかもしれません。

逆に言えば、目の前の人に変な色を付けず、あらゆる可能性の目を開いていさえすれば、運命が自然に目の前にその人を存在させてくれるものなのだろうと思うのです。

恋愛は依存から始まります。
だから依存がダメな訳じゃないと私は思うんです。

素直に想いや行動をやりとりできなくなると
同じような場面のはずなのに、とたんに風景が変わるから
恋愛はやっかい。

恋愛に限らず、人間の魂の学びは「依存」「自立」を行ったり来たりしながら学びを進め、
「共存」のステージへと向かっていきます。

依存から始まり、二人でひとつになる満足感や充足感を体験し、
そこで感じる安心感や温もりは、心を豊かにし、眠っていた愛を目覚めさせます。

愛して欲しい気持ちが自分を高めてくれる。

ところが、純粋な「愛して欲しい」がねじれてくると
心理的ゲームが始まります。

もっともらしい「愛してもらえる正当性」を盾に駆け引きをしてしまう。

それが「献身」だったり、「病気・事故・ケガ」だったり、「栄光」だったり、「管理」だったり。
「依存」することで、相手を支配しようとします。
弱者になることで支配し、
強者になることで支配しようとする。
お互いにポジションの違いはあるものの支配コントロールしようとするのは、同じことなので、
戦いになってしまうんです。

愛を感じあいたいだけなのに戦うなんて、おかしい。
と思うかもしれませんが、
愛は「いのち」なので必死です。
それがなくなってしまったら死んでしまうと感じるので、死なないようにどうにか「関係性を保つ」ことが重要になってしまいます。
どんなに歪んでも、苦しくても、不自由でも、すっきりしなくても。
相手と自分の境界線があまりに曖昧になることによって、
思い通りにならないことに反応してしまうんです。


そこで、ちょっと「自立」へシフトすると、二人の間に隙間が生まれ風が吹きます。
意識としては「自分に戻る」。
自分の好きなこと、自分の活動、仕事、人間関係にエネルギーを注ぎ、そこに自分の場を与える。
そこでまた自分の世界を広げるのです。
自信も深まります。

そうなると、また相手と一緒に居られることの奇跡に氣づけ、感謝の気持ちも湧いてくる。

自分の世界を楽しむこと
ひとつになること

そのどちらも歓びたいですね。




ほかのことが手に着かなくなるほど恋愛に没頭してしまう方がいます。

最近では「恋愛依存症」なんていう言葉が出回るほどなので、かなりの方がいらっしゃるんでしょうね。

「恋愛は、【生き死に】に関わる一大事」と私はよく言っています。

前の職場でも、「犯罪」という局面でも、掘り下げていくと「愛情のもつれ」が潜んでいることの多いこと。

甘いだけではない、人生を掛けてまでもそれを望む、人生を掛けるほどの価値をそこに見出すのは、古今東西人類には欠くことのできない要素なのかもしれません。


さて、では「依存」って何なんでしょうね。

辞書を調べると「他のものにたよって成立・存在すること。」との意味で、そうだとすれば、私たちは依存によってしか存在し得ないとも言えます。

そのものの力だけで生きているもの、存在できているものなんてこの世には存在しないわけで、どんなものでも何かしら「他のもの」の力を借りて存在しています。

それがないと生きていけない。

【生き死に】に関わることだとも言えます。

人間関係においても、「誰かに頼る」という要素は、欠くことの出来ないもので、そもそも私たちは誰一人として誰の手も借りずに存在できている人などいません。

でも、今日の社会では、その対にある「自立」が重要視され、「依存は良くないもの」という意識が小さい頃から刷り込まれているように思います。

依存症、共依存、依存的なんていう言葉を聞くと、「依存」はいけないことのように感じてしまいます。

でも、「依存」が悪いわけでは決してなく、そこに固定してしまう、それが受け入れられないところに「何か良くないもの」が存在しているだけなのだと思います。

多くの場合、「自立」を目指すプロセスにおいて、「依存」を排除し自立型に偏りすぎていることが、存症による問題を引き起こしていることが多いように見受けられます。

「自分」を確立するプロセスには、「自立」の意識は欠かせません。

「依存」だけの世界では、自己と他者の区別が付けにくくなります。

何かしらの問題が生じても、それを自分のこととしてとらえるか、それ意外のこととしてとらえるかの区別ができません。

そうすると、殊更に自分を責めたり、他者のせいにしたり、問題の所在がずれているため、それを問題そのものが混沌としてしまいます。

自分ごとと他人事がごちゃ混ぜなので、責任の取り方が曖昧になってしまいます。

自分の責任を人になすりつけたり、人の責任を自分で取ろうとしたり。

しかし、自立の世界では、自己と他者の区別がはっきりしているので、起きていることを客観的にとらえ、自分のことは自分ごとと他人事の区別ができます。

そうすると「責任を取れるのは自分ごとだけ」ということが分かります。

自分として生きることの喜びや、自己責任で生きることの心地よさは感じるはずです。

どちらがいいとか悪いということではなく、「依存」が不可欠な世界の中で「自立」した意識を持つことが大事だということ。


恋愛の場面では、より「依存」の場面がクローズアップされます。

「依存」できる安心できる場所が恋愛の場とも言えるかもしれません。

それがなかったら、恋愛なんて無味乾燥な場になってしまうでしょう。

でも、だからこそ「自立」の意識が大事なんだと思います。

社会の中で「自立」する術は多くの方が身に着けてきます。

でもそれが行き過ぎると、外では一切「依存」せず(していないように振る舞い),依存できる場所でそれを解消しようとするようなことが起きてしまう。

それが依存症だったり、共依存の共倒れにつながってしまう。

ある側面では「自立」が行き過ぎ、ある面では「依存」が行き過ぎる。

バランスが悪すぎると言うこと。


私もかなり妻に依存しています。

たぶん、妻に頼らなければ相当困るし、いなくなったら廃人のようになってしまうんじゃないかと恐れるほど、一緒にいてくれることに感謝しています。

ただ、その反面として、二人の間では常に「自立」した存在として関わることが求められ、気を抜けない側面も感じています。

自己責任で生きようとするからこそ、相手との依存関係が安心感につながり、豊かさにつながり、感謝につながる。

恋愛において「自立」と「依存」のバランスはとても難しいものです。

だけど、その相手とのバランスを取ることができたら、人生は自由自在なんじゃないかとさえ思います。
良い感じの夫婦関係を築いている人たちに「結婚の決め手」を聞いてみると、多くの場合、「何となく」という答えが返ってきます。

「いつの間にかそうなっちゃってましたね。」と言う。

もちろん、現実的にはそんなことはあり得ない。

気がついたら結婚していたなんて。

でも、そうなるべくしてそうなったという感覚があまりに自然だから、意識としては、「気がついたらそうなっていた」になる。

私もそうです。

好きだったから、良いと思ったから、幸せになれると思ったから、ビビっときたから、も確かにあったけど、それよりも一緒にいることが自然だった。

ましてや、相手がどうだったから、ここが良かった、こうしてもらえるから、など、相手に求める条件なんて、考えていなかった。

勝手に自分がそう思い、奇跡的に相手がそう思ってくれた。

相手を選んでいるようで、選んでもいない。

「赤い糸」という言葉はこんな感覚を表しているのかとも思います。


先日の講座で、「どんな相手を選んだら良いのか分からない」という話題が出ました。

はっきり言って、そんなの誰にも分からない。

 こういう人を選べば幸せ

 こんな人だったら安心

 私を大切にしてくれる人がいい

 ~してくれるなら、ほかは我慢する

などいう条件で相手選んだとしても、その人がそうであり続けるか、そうなるかどうかなんて誰も分からない。

だから、「そういう人」探しをしたって何の意味もないということ。

ただ言えることは、

 自分が引き出したいものを相手から引き出す

ということ。

相手がどんなに優しい人でも、あなたが引き出したいものが暴力だったら、相手の暴力的な部分を引き出す。

相手がどんなに素晴らしい人でも、あなたが引き出したいものがダメな部分だったら、相手のダメなところを引き出す。

あなたが注目しているものがそのままに引き出されるということです。

その仕組みに気付かない限りは、どんな相手を選んでも結果は同じ。

自分が無意識に望んでいるものの前には、「こんな人がいい!」という小さな希望は何の意味も持ちません。

パートナーは鏡とはよく言われます。

相手とうまくいかないとしたら、自分の内側に「認めたくない自分」がいるということ。

相手に条件を求めているとしたら、自分以外の自分になろうとしているとき。

自分から逃げずに、鏡を通して自分の姿をしっかり見ることができたら、パートナーシップは最高のものになるはずです。

本当に好きかどうか、わかるまでとことん自分の気持ちと、相手との関わり合いを大切にして欲しいなぁ、と思います。

よくわからない、というのはつかみどころのない感情のことですしね。
でも、本当に好きかどうか、わからなくなるのは、
関係性が深まった後の方がわからなくなるのではないかなと私は思います。
だって複雑化してくるもの。

最初は
興味を惹かれる
気になって氣づくとその人のことを考えている
他の人ならスルーできるのに、いちいちグサッ!ドキッ!としてしまう
自分だけを見て欲しいという欲望や嫉妬を感じる
など、わかりやすかったりします。

わかりたいのは、自分の気持ちではなく、相手の気持ちでは?
と聞きたくなる場面もたくさんあります(笑)

二人の未来が気になる
どうなるんだろう?
ダメなら早く知りたい

気持ちはすご~~くわかります。
だって気になります。
他の人なら特別に思ってもらえなくても諦められるけど、
この人のことを好きになってしまって、諦めきれなくなってしまう自分が怖い。

失いたくない人を人生に向かい入れることは、
それがもし片思いであっても怖いことなのかもしれません。

それが片思いでも、自分の独りよがりでも、両思いになってしまっても、
自分の「好き」という気持ちを大切にして欲しいと思います。

私はよく「この人じゃないかもと思わないで、
本気で愛してみてください」と言います。

程よい傷つかない距離を保って、恋愛的な関係性を持っても、
中途半端すぎてもったいないからです。

本気でやると、思ったより、深くいろんなことが学べるんです。

自分が選ばれないかもしれないことや
相手に別れる告げるかもいしれない未来のために
今の自分の気持ちをあやふやにしておくのはやめましょう。
だって、本当は他の人とは違う何かを感じているのだから。

だからといって必要以上に深い意味付けをしようとするのも、待って、という氣がします。

別れない理由、しがみつく理由も、必要ないと思います。

自分がそうしたいから。

それでいいと思うんです。

「この人は運命の人!」
と、この人を好きになる理由を探す必要もない。



すべての出逢いが運命の出逢いなのだから。