辻村深月『琥珀の夏』(文藝春秋、2021)
就活の時、教育業界の説明会を回っていて感じたのは、教育って新興宗教みたいだなということ。ある信念に共感した人たちが一丸となり、勉強を通じて子どもたちにその信念を注ぎ込む。時に勉強<信念となって子どもたちの希望の進路実現よりも優先されているものが垣間見えて、率直に言って怖い、ゾッとするような感覚になった。という話を友だちにしたら「わかる!」とのこと。「例えば○○とか?」「そう!」私より1年早く就活を終えた彼女も、私と同じ危険な香りを察知していたようだった。こちらの物語の中心となるのは、恐らく私や友だちが感じた塾業界の闇のさらに斜め上を行くような、もはや紛れもなく新興宗教的な学校である。琥珀の夏 (文春文庫)Amazon(アマゾン)一緒に暮らすことができないわけではないのに、わざわざ親元を離れ、先生や他の子どもたちと自然の中で共同生活を行う。親と暮らさないのは自主性を重んじているからだという。もう、この時点でよくわからない。親と別居=自立?自主性って親と暮らしていると妨げられるの?自然の中で育てることが大事なのか?それはまあ、わからなくはないけれど、今の時代は自然を追い求めすぎると不自然になる。ここまでディスらなくても、大抵の人は自分の子どもにここまでの教育を施そうとは思わないだろう。しかし、共感する者が一定数いるからこそ、教育団体として成り立つわけで、成り立ってしまったら子ども自身の意思とは関係なく、そこに収容される子どもたちが出てくるわけである。独自のこだわりがある団体は閉鎖的になりがちだが、こちらの「ミライの学校」には夏合宿があり、外部の小学生もやって来る。夏合宿だけ参加のノリコは物心つくかつかないかくらいから「ミライの学校」で生活してきたミカと友だちになるが、合宿後に再会することは1度もないまま30年の時が過ぎた。ミライの学校の綻びが次々に見つかり、報道されるようになって初めて思い出した子どもの頃、微かによぎった違和感。違和感を持つことができなかったであろう子どもたちを襲う悲劇。この物語に触れた私たち大人はどんな行動を取るべきだろう。自信を持つのは大切。しかし偏り過ぎるのは危険。ブレない軸がある人は強い。しかしその軸が適切な方向を指しているのかはわからない。わからないから怖い。知らないから洗脳されていく子どもは不幸。子どもを不幸にする大人は罪。しかし罪を償ったところで報われない不幸になった子どもたち、もとい、そのまま大人になってしまったかつての子どもたち。救われる術がこの世のどこかにあることを願う。