当時
図書館で借りることのできたそれらを
ほとんど読破したほど好きでした。
そして、ある日気づきました。
-自分は日本語で仏文学を読んでいる。
それは即ち翻訳者のそれを読んでいるのだ-と。
それは即ち翻訳者のそれを読んでいるのだ-と。
30を越えてからラヴァル大学
(カナダ・ケベックシティー)に留学をしたのは
(カナダ・ケベックシティー)に留学をしたのは
-原文で全てを読み返したい-
ただそれだけの理由でした。
昔から
「人伝ての話や言葉」に興味のない人間でした。
「人伝ての話や言葉」に興味のない人間でした。
初級で言えば
サガンをサガンの書いた文学として
自分が再読した時
-ああ、翻訳は恐いな-とつくづく感じました。
例え、どんなに素晴らしい翻訳文学であっても
それはサガンの原文とは似て非なるものでした。
かの如く。
一事が万事。
私は-人伝てーという噂や解釈を好まなず
まずはどっぷりと
渦中の主人を直に知るという取材型の人生を
選んでいます。
選んでいます。
善きことも
悪しきことも
この目で見ない限り
私には何の説得力も持たない
「ただの噂」なのです。
「ただの噂」なのです。
飯田有貴(15年前の自分とともに)