ブログネタ:悲しくなる歌 参加中
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五月の蝿 RADWIMPS MV
僕は君を許さないよ 何があっても許さないよ
君が襲われ 身ぐるみ剥がされ レイプされ ポイってされ 途方に暮れたとして
その横を満面の笑みで スキップでもしながら 鼻歌を口ずさむんだ
僕は君を許さない もう許さない もう許さないから
悲しみや憂いの影の 一つも宿さず かわいいと言われ慣れて 醜く腐った その
表情をもうフォークを突きたてたいよ あぁしたい 死体になった君を見たい
おのが醜さ恥じて しゃれこうべを垂れ 名前より先に「ごめんなさい」を口癖に
今日まで手を合わせ 生きてきたのに 馬鹿みたい 君を見てると
まるで 自分が世界一汚れなき人間(もの)に思えてきたりもするんですが
あいにくそんな遠回りせずーとーも僕は僕を大事にできるからもういらないよ
僕は君を許さないよ 何があっても許さないよ
通り魔ーに刺され ハラワターがこぼれ 血反吐を吐く君が 助けを求めたとて
ヘッドフォンで大好きな音楽を聴きながら こぼれた腸ハラワタでなわとびするんだ
僕は君を許さない もう許さない もう許さないから
君の罪を裁く法律ない あぁなんて世界だ
代わり-に-僕が罰してあげましょうなんていうかよ馬鹿
君にあげた僕の言葉たちよ成仏せよ
その体に解き放った愛しの僕の,精液をお願いよ 取り返したいの
かわいそう かわいそうで泣きそう
空が青いように 花が散るように 君が嫌い 他に説明は不可
君が主演の 映画の中では 僕はそう最凶 最悪の悪役
激動の果てに やっとたどり着いた 僕にも出来た絶対的な存在
こうやって人は生きてくんでしょう? 産まれて初めての宗教がキミです
僕は君を 許さないよ 何があっても 許さないよ
君の愛する我が子がいつか 物心つくとこう 言ってわめきだ-すんだ
「お母さん ねえ 何で 私を産んだよ お母さんの子になんて 産まれなきゃ良かった
お母さんの子になんて産まれなきゃ良かった お母さんの子になんて産まれなきゃ良かった」
そこへ僕が颯爽 と現れて 両の腕で彼女をそっと抱きーしめるんだ
「君は何も悪くないよ 悪くないよ 悪くないから」
道徳授業が復活なのだそうだ。実に喜ばしい、反面、実に徒労に終わりそうな危機感を抱いている。
生まれてからしばらくの間は人間は「ヒト」でしかない。3歳児などチンパンジーと変わらない知能なのだ。
その後「ヒト」は教育によって「人間」になっていく。教育をしないといつまでも「ヒト」のままなのは、発展途上国の荒れ果てた争いを見てもわかることだと思う。
ではこの間の教育とは何か。
あたしは道徳だと思う。または審美眼なんていう美しいものや温かいものに触れるココロ。
それが出来てからやっと「知識」を教え、その後「思考」を深めていくのではないだろうか。
優先順位。そう順番が大事だと思っているの。
豊かな感性を育てる前に「知育教育」なんてのを「早く!早く!」なんて焦って・・・。
「理論や理屈」を先に教え込んでしまうから、場の空気が読めなかったり、思いやりが欠如したり・・するんじゃない?
幼い時「とにかく覚えろ」「駄目なものは駄目」と断定されたり「意味なんてやってる内にわかる」と言われたものだ。
何でこんな事してるんだろうと理不尽に感じたりもしたけれど。
大きくなって「あの理不尽さを感じた事自体」が。そう、なんであんな事をしたのか?を自分の感性で考えらることが「道徳心」だったんだと思うんです。
「挨拶をしろ」「靴をそろえろ」「食事の前には手を合わせろ」あれらの道徳とは。
感性のつめこみだったんだと思うの。人格の基礎みたいなもの。
そこから「挨拶はしなきゃ駄目」うん。じゃあ何で挨拶をするんだろう?と「考えること」が大事だったんだ。
これが最初に「〇〇だから〇〇しなければならない」なんて理詰めで教え込まれたら・・。
「法律に反していなければ何をして良い」なんていう処世術でしかなくなっちゃったんだと思う。
その時々で「自分の核を持ちながらなぜ?を問いかけていける」これが道徳心なんだと思うわけ。
こうして社会人になって来たんじゃないかしら。
でもね、これからの道徳の授業は難しそう。
『人を殺してはいけません』
なぜならば。
「人を殺すのは悪いことだから。法律でも決められています。命はかけがえのないひとつしかないものだからです」
そう答えたら正解。うん。正解ではあるんだけど。
1+1はいくつですか「2です!」はい正解!なんてことと変わらない。
殺してはいけないのですか?と問われたらこう答えればいいなんていう「答えを教える」ことは道徳とは言わないんじゃない?
「殺すことがなぜ悪いか」を根本から考えないと、考えている内に性根に「悪いことなんだ」を認識させることそのものが道徳だと思うんだ。
でね。「考えること」を教えるなんてこと・・難しいんだよ。
答えがないものを、確認の仕様がないものを今の教育で出来るのかと思ったりもする。
その為には「考える大人」を見せなきゃいけない。お手本がいるんだ。
そのお手本を見て学ぶ。それが大事だと思うんだけど・・・。
「挨拶をしろ」「靴をそろえろ」「食事の前には手を合わせろ」
あたしにそう言って聞かせた人たちは、自分もそうしてた。
それを見て、ああ、ああやるんだなって見よう見まねで身につけたんだ。
けれど、昨今では「言って聞かせましょう」なんてのが持て囃されて、クドクドと「こうでこうでこうだから駄目よ」なんてことが正解になってしまっている現状。
逆を言えば「こうでこうでこうださえ守れば何してもいいだろ」なんてことになってる現状。
これって条件反射なだけで、思考を深める・・からは程遠いんだよ。
それを「道徳」で取り戻すには、教える側に「相当の覚悟」がいるんじゃないかな。
ヒトから人間、そして社会人に育てると言うこと。
自然に出来ていたことさえ、いまや情報に飲み込まれシンプルなことが複雑化しちゃった。
「ゆとり教育」なんていう本来は「のびのびと考える力を養わせましょう」だったものが。
学力低下を危惧した親達によって、小さいときから塾へ!なんて理屈や理論を詰め込んじゃったものだから・・・
その年代がいまや先生として教壇に立つ時代。
道徳は大事だけれど・・・どうなることやら・・・ふう。
道徳と言えば、RADのこの曲。見事な二律背反っぷり。
人を愛するということ。愛するが故の憎しみ。そう「愛憎」なんていうとチープだけれど。
自らを見失うほどの衝動、激動、愛増・・・。
「許さない!法が裁かなくとも、絶対に許さない!」うん。許せないじゃない。許さない。なんだ。
そこまでに到る愛への固執。欲してやまぬ焦がれる激情。
「生まれて初めての宗教が君」なんて、絶対的なものはあなたでしかないってことよね。
一見、失恋ソングに思える曲が、一転、究極のラブソングにもなる。
君の愛する我が子が いつか物心つくとこう言って喚き出すんだ
「お母さんねぇなんで アタシを産んだのよ」
「お母さんの子になんて産まれなきゃよかった」
そこへ僕が颯爽と現れて 両の腕で彼女をそっと抱きしめる
君は何も悪くないよ 悪くないよ 悪くないから
これさ。唸ったわよ。うん。
君の愛するわが子に罵倒されて「君は何も悪くないよ」と抱きしめるのよね。
ねぇ「君」って何を指してると思う?
愛するわが子とも、彼女ともとれるんだよ。
絶対的な存在を、絶対的であるがゆえに愛しも憎しみもする。
自分の気持ちを分かって欲しくて全身全霊でぶつかるのに、全身全霊で抱きしめもする。
ああ、二律背反。感情と感性の葛藤を久々感じたよ。
道徳って白黒だけれど。
感情と感性を総動員させなきゃ。
道徳って是非ではあるけれど。
表面だけじゃない感覚をやしなわないと。
処世術にはしたくない。うん。
そんなある日の思考の欠片。