都会の地下通路のはじにホームレスがすわりこんでいる
ふだんこんな人通りの多い通路にホームレスは見ない

なにかが蓄積したニオイが、
むせるほどに彼をとり囲んでいる

長くて灰色の上着は、
地面を這い、
これ以上色がくすもうが、
染みが増えようがもうどうでもいいかのようだ

頭は白髪が黒髪をおおい、
枯れ枝がのびている

口の上にはまるでキノコのように、
こんもりとヒゲがはえている

通路の灰色の床に、
灰色の彼が同化していて、
めだつのに、
ひっそりしていた




彼のキノコがもさもさうごいている

どうやらキノコの下の口が、
もぐもぐしているらしい


よくみると、
どこでひろってきたのか、
板チョコレートを大事そうに両手で包みこんでいた






そうだ


今日は、
バレンタインデーなのだ









気温は10℃をきった

空はまだ青いが、下界はもううす暗い



綿のはいったジャンパーを着こみ、
マフラーで首をしめ上げ、
ニット帽で耳をふさいでも、
まださむい


歳をとった身体には、
すきま風がはいってくるかのよう



せまい道路わきの、
古ぼけたコンクリートの植え込みに腰をかけて、
私は身をまもるように背をまるめた




家に帰れば、
娘夫婦が家族3人そろって私を出迎えるだろう

しあわせな笑顔で


いつもあたたかい味噌汁をつくる娘は、
私がどんなに遅く帰っても、
食事をていねいにあたためてくれる



帰るのが遅くなってはいけない、

そう思うのだが







遠くで時を告げるサイレンがなり、
私は顔をあげた

目の前には灰色のビルの壁
タイルがところどころはがれている

意味もなく、
壁を見つめつづけた



時間が早くすぎさればいい









「じいちゃん!」

我が家のドアがひらき、
孫娘が家からとびだしてきた

窓から私が見えてしまったのだろう

手には幼稚園で描いてきたらしい、
つたない絵がにぎられている



私は心が重くなった



絵はどうやら、私を描いたものらしい

わけのわからない、
ぐちゃぐちゃの絵





私はこの絵を愛しいと思えなかった

絵をにぎる孫娘の手も








最近、
歳をとったせいなのか、
記憶がすこしずつぼやけてきていた


すごした時間の短い「孫娘」は、
すでに、
同居している「他人」も同然だった



症状がこのまますすめば、
どんな病名がつくのか、
察しはついている








「愛してくれ」と言わんばかりの笑顔




申しわけない

すまない

ゆるしてほしい




帰りたくない

しかし私には、
あそこしか帰る場所がない











「帰ろうか」

私は幼い他人の手をにぎった


帰るしかないのだ








耳がいたくなるほど高いビル

ビルの頂上の先にみえる、
乾燥した、青い空




しあわせそうな人たち
笑顔の人が次々と通りすぎてゆく


春のあたたかい風は、
まわりの音を遠く感じさせる

自分のまわりに、
空気の層ができたかのように

遠くはなれた海から吹いてくる、
潮風のように

耳の奥で風が吹く
音もなく

しずかに
しずかに、膨張する









春の風は、
私の話をきいてくれない気がする

まるであの人のように





そばにいたからってなにになるんだ







春の風が吹くと、
すべてが遠いことを思い知る





そんなの、
知りたくもない