2018年が始まって2週間もすぎる。

恐ろしい速度を伴って毎日が過ぎて行く。

そして目まぐるしく情報が更新されていく。

幼い頃、毎日感じた
時間が空間がそこにいてくれていた感じ。

今では時間も空間も人を置き去りにしている感覚にさえとらわれる。

2018年1月19日。
小室哲哉氏が引退を表明した。
59歳……。私の父が3歳ほど年上だ。

小室氏の生業は音楽プロデューサーである。
TM networkの時代から今日まで。
彼の作る音楽というものは時代やブームにもてはやされた。
ただ私はそんな小室氏の本質はただ音楽を作るのが楽しい音楽が好きだという本能に従った上での生業だったのだろうと感じている。
時代をつくったといえば華やかだ。
しかし、時代に磨耗されていったかのような、そんな感じもしてしまう。
好きなものを好きだと、ただそれだけのことを。
社会は都合よく扱い都合よく見放したのかもしれない。


さて、ここで私が語りたいのは生業とはである。

生計を立てるための仕事。私はそれを生業と呼ぶ。

小室哲哉氏の引退報道共に湧き上がった
週刊文春  への批判。
報道とは、マスコミ、メディアとは?

……私の目線で話をしたい。
正しいか間違っているかは読んだ方が決めてくだされば良い。

ここ数年、週刊誌によるスクープ、
常軌を逸した取材などをよく見る気がする。

しかし数年前。
バンドボーカリストと、女性タレントのスクープがあった際世の中は
よくぞこれをスクープした!文春砲炸裂!
などともてはやした。
社会の大半の人は、いわゆる、週刊誌ネタについて
インパクトがあり、批判しやすい内容に
つい興味をそそられ喰いついてしまうものだろう。

あれから、同じ週刊文春が小室哲哉氏のスクープを
2018年に載せた。
…社会に溢れる文春は酷い、やりすぎとの声。

……でもそうなのだろうか?
確かに小室哲哉氏のスクープにより
後味の悪さをかんじ、1人の天才の生業を奪ってしまった。

でも振り返れば、数年前、文春を褒め称えあまつさえ、文春砲を求める言葉がネット中にあふれていたことを私は忘れてはいない。

そして、生業とは。
悲しいかな、週刊文春の記者もライターもおそらく
それを生業としているのだろう。

もし、私の家族に、週刊誌の編集者がいたなら?
ライターがいたなら?

世の中を驚かせる、賑わせるニュースを
必死に探さねばいけない焦りを
それを、追い続けなければならない執念を

そしてそれで生活しているという事実を
知っていたとしたなら
責めることはできないと思う。

世の中は過敏な反応をし
時として本核を見失う。

社会に溢れるものは
誰かがつくり循環している。

小室哲哉氏に対するスクープを、文春を
責めたくなるのは当然だ。

でも、一人一人が本来あるべき報道と
欲望で生み出される情報を交錯してしまっている気がする。

文春砲を待ちわびていたのは誰だったろうか?
文春を褒め称えたのは、何故だったろうか?

誰しもが生きるために働く。
たとえその中で消費される週刊誌というものが
私にとってはただの紙だったとしても
編集者にとってはきっと生業なのだ。

人間とは、仕事という名目があれば
他人を不幸にすることを厭わない側面がある。

でも、それではいけないと思うのだ。

……
世の中が求めれば、もっと大きなスクープを!
手柄を!となるのは素人考えでもわかる。

本来あるべき報道とはなんだろう?
本来あるべき取材とは?

そして、受け取る側としてモラルは?

考えさせられる。

報道と情報の錯綜は
不幸を生む。

よく、わかった。

物事を捉える目を心を、誰もが大事にするべき時代。

胸に手を当てて考えたい。
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誰にだって心の中に踏み込まれたくない場所はあるさ。