諏訪大社本宮近くにある 
神宮寺 跡 で
物言わぬ、神秘的な  巨木に 。。。


諏訪大社本宮周辺は、
『神宮寺』という大寺院を中心に
多くの伽藍が立ち並んでいました。

神宮寺  普賢堂 は、
空海 が建立したお堂。
( 神宮寺1292年再建 . 今は何もない)  

当時、
神宮寺は諏訪大社と一体 
と考えられていて、
大坊(神宮寺)、下ノ坊(蓮池院)
現在の参道には、上ノ坊(如法院)
神洞院、宝蔵坊、松林坊、蓮乗坊、
泉蔵坊、玉蔵坊、善勝坊…
といった寺院が立ち並び、
諏訪大社以上に、栄えに栄えたそうです。


⬆︎右側に、諏訪大社。
弥勒堂 も あったようですね…



とても栄えた伽藍でしたが、
明治以降の 廃仏毀釈 により
法華寺 を 除き 全て取り壊されて
しまったそうです。




神宮寺 に 御本尊 としてお祀りされていた
「諏訪大明神」の
諏訪大明神本地普賢菩薩
普賢堂脇仏文殊菩薩  は、

 ( 長野県諏訪市大字四賀4373 ) 
 べったくさん ぶっぽうしょうりゅうじ
 鼈澤山 仏法紹隆寺
 (坂上田村麻呂 が建立したお寺)
に 移され、現存しています。

仏法紹隆寺は、空海 が、
真言宗を勉強する『学問道場』 として
指定したお寺です。

 ● 仏師・運慶作・不動明王立像 あり
 ● 諏訪高島藩の祈願寺
 ● 神宮寺より移された山門あり



今も残る 神宮寺跡の道。
初夏には、紫陽花の花が咲き誇るようです。

小径を上ると、 心字池


池のほとりに立つ 樹齢約400年
「五本杉」 (諏訪市天然記念物)



弘法大師 が、この木の下に『宝』を埋め

朝日照り 夕日かがやくこの山に
漆千杯、金千杯、朱千

という詩を残したそうです。



普賢堂・五重塔・鐘楼・釈迦堂
不動堂・上り仁王門・下り仁王門
などがあったようです。



史跡として、もう少し、看板など
工夫されても、よいかも…?
 (今も、諏訪大社の土地だとか…?)


(  回廊入り口の上に 刻まれていた

   密教法具の謎。ずっと。謎でしたが、

   空海との縁、真言宗で、繋がりました )




甲斐源氏、武田信玄は
諏訪大社を篤く信仰していました。

見つけましたよ 。。。 信玄公墓碑…
手入れ不足で残念な状態でしたアセアセ
これを探せた人は、凄い!!です!!キラキラ

武田信玄は、自国の繁栄を求め、
緻密な領地経営力と騎馬軍団、
戦略と、堅実さ を極めた武将。

それに、対し、織田信長は、
天下統一に向かい、大胆で斬新な発想で
次々と行動に移す 勢いのある人。

お互いに 注目し、意識し合い、
友好的な関係を築いていたのですが、
信長の、比叡山焼打ち により、
信長を恐れた 延暦寺 や、足利義昭から 
信長を討つ!と、要請があり
信玄も、挙兵します。

ですが、信玄は 途中、持病の悪化で、
根羽の地 で 終焉 (しゅうえん)  (肺結核?)

下伊那郡(長野県の最南端)
根羽川沿いの集落に、信玄塚が。
(下伊那郡根羽村横旗)

駒場(下伊那郡阿智村駒場長岳寺
には、武田信玄公 灰塚供養塔が。

佐久市岩村田 龍雲寺 境内からは
信玄の遺骨が発見され、
骨壺の中から出た、袈裟の環には

「大檀越 信玄、時に 天正元年 四月十二日
 駒場に於いて 卒戦時の為、舎利を納め、
 ここに 北高和尚が 頂礼 百拝した」
と、書かれていたそうです。

 ( 武田信玄墓所は、沢山あります)
  ● 山梨県、武田神社、大泉寺、恵林寺
  ● 長野県、諏訪、長岳寺、龍雲寺、
  ● 高野山、など、、、

対決を避け続けた 信玄と信長は、
戦うことはありませんでした。が、
武田信玄の死後、天正10年(1582年)
信長 と 家康 の 連合軍が
信玄の息子、勝頼攻め込み、
 勝頼 は 命を落とし、甲斐武田氏は滅亡。

織田信長の嫡男(ちゃくなん)、織田信忠は、
武田家 が 篤く信仰していた 
諏訪明神 ・諏訪大社 上社本宮 
全て を  焼き払ってしまいます。

諏訪大社と武田信玄 の 深縁 とは…
信玄は、正室をすぐに亡くした後、
継室に、三条の方 をもらいますが、
子達が、失明などにより、家督を継げず、
側室に、諏訪氏より 諏訪御料人 を迎えます。
その間にできたのが、勝頼 。
諏訪御料人 は、実名不明の姫で、
諏訪湖の六斗川下流付近から来たので
 湖衣姫  と呼ばれた姫です。

勝頼は、諏訪氏跡取り でもあるので
織田家は、諏訪氏滅亡の象徴の為
諏訪大社を焼き払ったのでしょう。

類焼を免れた 法華寺 には、
織田信長が滞在し、本陣 とし、
真田幸村親子や、徳川家康も訪れました。

そして、その時、ここで、
日本の歴史に残るエピソードが、、、
繰り広げられます。。。

それは、今年、2020 年 大河ドラマ、
『麒麟がくる』の人、明智光秀に因む、
有名な話。

光秀が、信長から 激しく折檻される
という 名場面 があります。
その場所が、諏訪大社本宮の隣である
法華寺  と、されています。

法華寺 で話した わずか二ヶ月後。
「本能寺の変」が おきます。
あの「本能寺の変」に繋がる
あの「出来事」が起きた因縁の場所。

『本能寺の変』は、諏訪明神の神罰や、
信長に殺された人々の 怨念 が 結束 し、
明智光秀公の背中を押した
とも、いわれているそうですよ…


法華寺 は、1999年に放火され再建。

境内の裏手には、
忠臣蔵・赤穂義士の討入で知られる
吉良上野介義央の孫であり、子(養子)
吉良義周 の墓所 が あります。


上社 本宮 は再建され、 四脚門 は、

徳川家康 の 寄進 により造営されています。


徳川家康は、あの時…法華寺同席し、

信長から、辱めを受けた光秀を見ていた…

家康は、諏訪大社に寄進しながら

何を思ったのでしょうか…?……


諏訪大社 本宮は、歴史的人物を 

沢山呼びましたね。。。

空海、坂上田村麻呂源頼朝

武田信玄、明智光秀、真田親子、

織田信長、徳川家康、


改めて、凄い〜❗️❗️


いつも読んでくださってありがとうございますラブラブ

念彼観音力