ヒツジのサトリ

ヒツジのサトリ

開け、悟りへの道!!

先代の哲学者に聞く、世の中の考え方。
オススメな哲学者、読みやすい本の情報を募集中。

*読破もしくは現在熟読中の哲学本*
・空想哲学読本
・この哲学者を見よ
・忘れてしまった哲学の名言
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1日はある程度長いのに、気づけば一月終わりそう。
ひぃぃぃ~
そうして今年も終わっていくんだなぁ・・・

悟るどころか、独り奥深い所に迷いこみかけてるコバヤシです。
今は浮いた話一つないので(寂)、
自分と対する時間が増えるのです。
前総理じゃないですが、自分を客観的に見るっていう(笑)
でも『自分』と言う時点で客観じゃない気もするけど。

人は誰しも、自分の中に何人か別の自分がいると思うのです。
こんな事言うと怪訝な顔されるかもしれませんが、
まあ軽い感じで聞いて下さい。
例えば衝動買いしそうになって、「いや、やっぱりダメ!」
と留める理性的な自分とか。そんな感じです。

私にも当然いまして、特に濃い付合いの自分が一人。
なにかにつけ叱咤激励してくれる、頼もしい人だったんですが、
初夏の辺りから見当たらなくなって、ついに秋口に姿を消しまして。
そりゃ、もうショックで(笑)
必死で探すんですけど、どこにもいない。
本当に重要な部分だっただけに、
いなくなってからというもの、どうも空転的な状態に。
なんだか心がドーナツ。

それが最近になって、ちょっと気配を感じてきました。
まだはっきりとはしないけど、その雰囲気が漂ってる気がします。
はやく顔を見せてほしいものです。
『畜生』は『蓄生』のほうがいいと思う。

生きるを蓄る。

捨て台詞がこんなにも前向きに!!
悩みを打ち明けるって難しくないですか?
なんだか自分の弱さを吐露するようで、私は出来ないのです。

弱さと言えば、涙は自分が弱いと感じた時に出るって聞きました。
嬉し泣きも、悔し泣きも、もらい泣きも無いんだと。
あー、納得。
だから人前で泣くのは抵抗があるんですね。
自分が弱いって言ってるから。

そんな私は、今夜のコードブルー最終回でぼろぼろ泣きました(笑)
ああ、弱いなぁと泣きながら冷静になる瞬間。

きっと自分が気にしてるだけで、大した悩みじゃないのかもしれないなぁ。
こんな時は人生の先輩に聞きませう。
一度通った道だから、きっと役に立つはず!


やばい!普通のブログに戻ってる!!
羊はキリスト教では信者を指すそうで。
だからイエス・キリストは羊飼い。
とは言え、私が羊ラヴァーなのはキリスト教とは無関係です。
どれかって言ったら仏教かなぁ~というレベルで。
お経を聞くとなんだか落ち着くし。
きっと魂が浄化されてるんだ!
ありがたや、ありがたや。南無~。

さて、羊好き+ミスチル大好きな私が、飛び上がって喜んだ曲があります。
その名も『羊、吠える』
タイトルもなんだか意味深な。

この曲は映画『恋空』の主題歌だった『旅立ちの唄』の2曲目です。
『旅立ち』とは一転、ロックな曲調。
初めゆったり、サビ激しく!っていう。
どこか『ストレンジ・カメレオン』という曲に似てる。
そのサビでこんな歌詞が。

殴られたなら もう片一方の頬を差し出すように
潔く生きれたなら どんなにか素敵だろう

元となった言葉は
右の頬を殴られたら、左の頬を差し出しなさい
ですね。結構有名な言葉だと思います。

それできたら、かなり潔いよ。
悪いけど私はできそうにないなぁ。
殴り返すのを我慢はできたとしても、もう片方出すなんて……。
ですが自分から手を出す事は絶対しないです。
小さな頃から親に
「相手が悪かろうと、先に手を出した方が悪い」
と教わっているので、相手が手を出してきたのを待って反撃に出るように心がけてます。

まあ女子なので殴り合いの喧嘩はした事ないですが。
皆さんも喧嘩にはご注意を。
血液型の説明書なるものが流行ってますよね。
なぜにB型ってのは物申されるんでしょうか。
別に私がB型だから言ってるんじゃないっすよ。

たまーに行動や言動から
「やっぱりB型やね~」
とか
「これだからB型は~」
なんて言われると、捲し立ててしまうのを抑えるのに必死で。
しかしこの手の話は女性が言い出すんですよね。

B型は自己主張が激しいだとか聞きますよね。
いいじゃないっすか、自己主張!
現代社会で求められる条件の一つですよ。
会社でも学校でも個性や意見が重要視される時代。
一時期、教育でそんな風潮ありましたよね?
今もそうなんでしょうか?

個性的である事を求められる反面、輪を乱してはいけないという矛盾。
小学生の頃から周りを伺って、みんなと同じでないと仲間はずれにされる。
授業は席にただ座り、教師の言葉と板書に注意を傾ける。
そんな『受け身』の姿勢を何年と続けて行く。
そのような環境の中で育った人間が、大人になって自分の意見を躊躇なく言えるだろうか。
へたしたら意見や意志すら持てないんじゃないか。

人間はいつからでも自分を変える事はできるけれど
急に突然変異することはない。
人格を作り出すのはそれまでの人生に蓄積されたものが元だと思うので。
だけど社会環境が悪いからじゃない。
己の結果の原因は、9割がた己の蒔いた種でしょうから。

なんだか血液型からぶっとんだ話に(笑)
しかも哲学じゃないって?
いいんです、こうやって物事を問答することも哲学ですよ。きっと。
girl


ヒトは無い物ねだりのカタマリだと思う。

だけど欲求がわかなくなったら終わりだと思う。
今回は哲学の話じゃないですが、ちょっとおもしろい事聞いたので。
以下、うろ覚えな知識が多々あるのはご了承下さい。

それは朝の通勤時にAMラジオから流れたお話。

人間は星なんだと。
ビックバンによって宇宙(星?)が生まれて
そこから生命が何億年もかけて誕生してきた。
だから人間も星と同じ元素を持ってる。

それには深く納得。
確かにCとかNとかの元素記号で『人間』という個体を表現できるだろうし。
こっからさらに興味深い内容に。

人間の遺伝子情報は、皆さんもご存知の通り膨大なもので
遺伝子一つに何万語とか、何千ページの辞書に相当する情報量だとか。(この辺がかなり曖昧な記憶)
しかしその情報を本人が知る事はできない。
人は他人と接したり、他人を通して『自分』という情報を知る。
さらに、遺伝子情報とは記録である。
『自分』という人間を意識する前の、はるか昔の記録を持っている。
そして現在の経験の記憶は、後世に語り継がれるために記録されている。

ほぉ~。
そう言われると、『現在』なんて存在しなくて
常に過去か未来な気がしてしまう。
しかも自分が持ってる情報なのに自分じゃわからないなんてね。
だから人間関係を築くのは重要なのかも。
それに少子化なんて言ってる場合じゃない。
自分の遺伝子の記憶を何世代も引き継いで貰わないと。
私が自分の子供が欲しいって思うのは、遺伝子の本能かもしれないなぁ。

ある原因にもとづいて、ある結果が必然的に生じる

これは前回の話に出てきた因果法則です。
「AならばBである」ってことですね。

身近な例で言えば
「蛇口をひねれば水が出る」
というような事。

これは人生にも同じ事が言えます。
毎日が、もっと言えばその瞬間ごとが選択の連続です。
一つの選択をすれば、それに従った結果が起こりますよね。
ある意味ギャンブル。
一瞬の判断が命取りになりかねません。

オランダのスピノザは、その因果法則についてこんな説を説いています。

人生は全て運命づけられている。

彼は、未来に何が起こるかはわからないけれど
世界も人生も、その他なにもかも、原因と結果の関係で決まっていることなんだ
と言っています。

まあ確かに論理的に考えたらそうですね。
何か一つ選択したという事は、その前に必ずその原因がある。
そしてその原因の前にも、やはり原因がある。
そうやって考えると、人生は何か選んだ時点で先が決まってくる気がします。

だけどその考えはなんだか味気ない。
それだと敷かれたレールをひた走る列車みたいな気が……。
この世に生を受けた日から死ぬその日まで、スケジュールが秒刻みにびっしり。
まるで自分という人間の一生を上映する芝居だ。

なんだか書いてて寂しくなっちゃったなぁ(笑)
次回はもっと昔の人をご紹介。
ずっと読みたかった本が2週間ほど借りてるので
その中から紹介します。
ボールを手に持ってたとします。
手を離します。
さて、ボールはどうなりますか?

地面に落ちますよね。
かの有名な『万有引力の法則』に従って。

もしAならばBである。
これを因果法則といいます。
この場合は、もし手を離したらボールは落ちる。という事です。
ですがこれを否定した人がいます。

イギリス経験論者、デビッド・ヒューム
彼は「因果法則なんて存在しないよ~ん」と言ったのです。
その理由はこうです。

『ボールから手を離すと落下する』というのは、
人間が何度も手を離してみた経験から、そうなると信じているだけ。
ということは、AならばBという法則は
論理的でも実在的でもなくて、ただの想像でしかない。

……だそうです。
まあ確かに、ボールから手を離すって文からすると
ボールが落下するなんて一言も言ってないし。

でも、んな事言ったら、世の中全部の因果法則が
「朝早起きしたらいい事あるんだよ♪」
とか
「流れ星に願い事したら叶うって☆」
とかいうレベルの話になりますよね。
けっこう曖昧な世界になってしまう気が。

その因果法則に基づいておもしろい説を説いた人がいます。
彼の名はスピノザ
次回はスピノザさんの因果法則論です。
「私が書き物をしている机が存在する、と私は言うが、
 それは私がその机を見、それに触れるという事である。
 また私が書斎を出るとしても、机は存在する、と私は言うであろう。
 その意味は、もし私が書斎にいたら私は机を知覚したであろう、
 という事であり、言いかえれば、ある他の精神が現実に机を知覚している、
 ということである。」


これはイギリス経験論者のバークリーの言葉です。
???ですよね。私もそう思います(笑)

もっと単純に言うと、
存在するとは知覚すること。
つまり、物は知覚という心理でそこにあるのであって、
物自体では存在しない、ってことです。
ようするに心で悟らなければ実体はない、ってこと。

こういう考え方は唯心論です。
それに対するのが唯物論。
心と物。
経験による想像で物体はある、と言うと飛躍しすぎでしょうか。

とにかく興味深い話ではあります。
だって心理的に知覚しないと物は存在しないなんて、
考えた事ないですもん。
いろんな解釈があるみたいなので、実は違う意味なのか?

実はこのバークリーを発展させて
もっとすごい事言ってる人が出てくるんですよ。
ほんとはそっちをメインで紹介したい(笑)
ので、次回はそのヒュームさんをご紹介。