アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?これからの経済と女性の話

カトリーン・マルサル=著、高橋璃子=訳

 

 

経済学と聞くと難しそうで構えてしまう。本書はそんな人にも分かりやすい地に足の着いた視点で、既存の経済学の歪みを暴いてみせる。以下に、この本の概略(わたし的に特に印象にのこったところのみ)を残しておきたい。

 

最初に、経済学では経済人という人物像をモデルとして物事が論じられるという前提が説明される。経済人は、環境や身体、依存、人間関係といった生きる上でのあらゆる制約から自由な存在で、合理的な方法で自己利益をひたすら追求する。

 

でも生身の人間はどうか。自己の利益だけを考えて合理的に行動しない若しくはできない事例はいくらでもある。それでもなお経済人というモデルが信仰され続けてきた背景には、経済から排除されてきた女性の存在があることを著者は指摘している(アダム・スミスの夕食を生涯作り続けた母親)。「見えざる手の届かないところに、見えない性がある(p.27)」という一文に本書のエッセンスが詰まっている。フェミニズム的視点から既存の経済学を批判的に論じる本のタイトルに、近代経済学の父のケアを担ってきた母という比喩的な対比をもってきているところにも注目したい。

 

さて、具体的に「経済から排除される」とは?例えば、伝統的に女性が担ってきた家事労働は国の経済活動の総量を測るGDP(国内総生産)には含まれない。ある少女が家族のために薪などの生活必需品を集めに毎日長い道のりを行き来する労働は生産活動には含まれず、逆に、介護施設に親を入れたり家政婦を雇ったりする場合はGDPに含まれる。同じケアの労働でも有償・無償があるのは、「合理的な自己利益の追求」以外の要素(愛情とか)が人の行動の動機に関係していることを示している。

 

ケアは、伝統的に女性が無償で担ってきた。故に、悲しいかな、エッセンシャルワークであるはずの育児介護等の労働価値は、低く見積もられがちだ。ケアワークに従事する人の多くは「献身的」な女性なので、そこから男女の収入格差などの問題に発展する。たしかに女性の労働市場進出は進んでいるけれど、現在の男性的な労働市場の枠組みのなかで仕事と家事の線引きは昔のままであれば、女性の負担はむしろ増えてしまう。マルサルは、この状況を、有名な男女のダンスコンビが同じダンスを踊るのに女性だけは後ろ向きでしかもハイヒールを履いて踊らなければならない状況になぞらえているが、わたしはここでちょっと前に日本で社会現象となった#KuToo運動を思い出した。

 

もうひとつ本書のなかで面白かったのが、経済学が宗教のようだという見方だ(p.233)。資本主義社会における経済は神のように扱われ、まさに「神の見えざる手」によって市場経済は調整されている。たしかに、宗教も経済も、人々の生活に浸透している近さと、近寄りがたい神聖な領域として恐れられている側面を兼ね備えている。かつてラテン語を読めた聖職者が絶大な権力を振るっていたように、難解な理論や用語に通じた経済学者も現代社会の権威的存在といえるだろう。とても興味深いアナロジーだ。

 

本書では、こうして経済から排除された「第二の経済」が、今日の様々な問題(男女の収入格差や、人材不足、環境問題、少子高齢化など)と関わっていることが明かされる。ここに全てをまとめることはできないので、記録はここまでにしておく。

 

このように女性が社会で感じる生きづらさを言語化してくれる本は、ひとりの女性として読んでいて胸が空くようだった。「うんうんそうだよね」と無限に頷けてしまう点については、わたしが色々不勉強なところもあると思うが、ひとつの見方を獲得できたのでよかった。インターネットやSNSの普及で多様性が認められるようになった反面、自分に都合のよい情報のみを取捨選択しやすくなっているからこそ、自分の「当たり前」という殻を揺さぶってくれるアイデアにどんどん触れていきたい。