華氏451度というのは紙が燃えはじめる温度なんだそうです。主人公のモンターグは消防士として働く真面目な青年。ただし、彼らが消すのは火ではなく本です。ここでの消防士というのは本を燃やすお仕事で、モンターグの世界では本や読書が禁止されているのです。

何故本や読書が禁止されなければならないのか?彼らの大義名分はこうです。まず、本は人間に思考することを強いることで、余計な疑問や問題を生み出す。本を読んだ一部の人間が突出して賢くなると格差が生まれる。格差は社会を不幸にする。消防士の任務は格差のない世界の平和と秩序を守ること。余計な悩みも、格差も全て燃やして解決……と。

読書が禁止された世界は、常に楽しいことや面白いことで溢れています。その一例として、モンターグの妻ミルドレッドは、‘seashells’という耳栓のようなもので四六時中ラジオや音楽を聴き、‘walls’というテレビのような据付型の画面をとおして、 ‘family’という架空の家族との交流に夢中になっています。夫婦の間に会話といえる会話はほとんどありません。ミルドレッドや彼女の友人たちは常に動いている画面を見ていないと落ち着かないし、沈黙に耐えられない。人々の脳は常に音と映像と興奮に支配されており、会話や沈黙などというものは異様とさえ思われています。

モンターグも最初は何の疑問も抱かずに本を燃やしている人間でした。しかし、クラリスという少女との出会いをきかっけに、これまでの人生や社会のあり方に疑問を抱くようになります。たしかに、世の中は楽しいことで満ち溢れている。でも、果たして自分は本当にしあわせだろうか?モンターグは自問します。そして、自分が全然しあわせではないことに気づきます。もしかすると本の中に幸せのヒントがあるのではないかと思ったモンターグは、本に興味をもちはじめます。そんなモンターグの家の天井裏にはこれまで興味本位でくすねてきた本の山が隠されており……そんな感じのお話です。

ディストピア文学って、「(本当には起こりえないけど)こんな未来は嫌だね」という警告のようなものだと思っていました。ユートピアが現実にはありえない理想の社会だとしたら、ディストピアはその逆で、現実には起こりえないような最悪の社会です。『華氏451度』が怖いのは、2022年という時代がモンターグの世界とそう遠くないところまで追いついていることです。人と会話するときでも無線のイヤホンをつけている人がいる。映写機が安く手に入るようになって自宅をそのまま映画館することもできる。サブスクでドラマも映画も見放題。かつては遠い存在だった芸能人とも、テレビからYouTubeへの移行により友達のような感覚で簡単に繋がることができる。インスタやTik Tok、Vチューバ―、VR、ライブ配信……。作者のブラッドベリが亡くなった2012年から10年。この10年の間にも世界は大きく変わって、最先端のテクノロジーで世界中が繋がることができる時代になった。一方で、そんな昔とは違う「繋がり」に一抹の虚しさを感じてしまうのは何故でしょうか。

『華氏451度』のなかで一番面白いと思ったのは、政府が大衆をコントロールするまでもなく、大衆が自ら本を遠ざけ、即効性のある快楽を与えてくれる娯楽を求めているところです。娯楽が飽和状態に陥っている社会において、読書などという「面倒くさいこと」は敬遠されがちです。instant gratification(即効性はあるけど持続しない満足感)を与えてくれるものが求められ、ひとつのことに集中して取り組むことができないという問題は深刻化しています。わたし自身、疲れて帰宅するとついスマホを開いてしまい気づいたら数時間経っているなんてことがよくあるので、他人事とは思えません。大量に入り込んでくる情報を処理しきれなくて、思考が麻痺しているなと自分でも感じることがあります。

『華氏451度』は、今日の娯楽との付き合い方に疑問を感じている人に是非手に取っていただきたい本です。1954年の作品ですが、今だからこそ響くものがあると思います。