【あらすじ】
物語の主人公・英子の人生は常に英語とともにあった。教育熱心な母親の計らいで幼い頃から英会話スクールに通わせてもらい、高校ではオーストラリアに短期留学、そして大学でも英文科を専攻した英子。「英語ができると後でいいことがある」という先生や広告の言葉を信じて、英語の世界にのめり込んでいった。英語はわたしを違う世界に連れて行ってくれる魔法――そう自分に言い聞かせて、「英語を活かす仕事」を夢見てきた。しかし、大学卒業後、英子を待ち受けていた現実は、翻訳スクールに通いながら英語とはほぼ無縁の派遣の仕事を転々とする日々だった。英語を使った職に就くという夢を共有し、英子に教育投資してくれた母親の期待に応えられないまま、英子は「次の仕事にありつけるか」という不安と隣り合わせの毎日を送っていた・・・。

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物語は、「高崎夫人は、自分で低脂肪乳を買ってくると言った。」という、『ダロウェイ夫人』の有名な冒頭を思わせる一文から始まります。この高崎夫人というのは英子の母親です。自分の人生を娘のそれに投影し、「あなたには英語がある」といつも英子を応援してくれる存在です。英子は高崎夫人の創り上げた「森」(この物語において「家」のように使われている表現)の庇護下で、母親と互いに依存しながら暮らしています。これは英子の物語であると同時に、高崎夫人の物語でもあるのです。

「これは一種のおとぎ話なのだ」といったようなことをツイッターか何かで書いている人がいらっしゃったのですが、なるほど英子と高崎夫人の住む「森」はヘンゼルとグレーテルに登場するお菓子の家のような様相を呈しています。一度迷い込んだら簡単には抜け出せない森です。壁紙から身に着けるものに至るまで、何もかもが子花柄模様で、母親の手料理も横文字の外国の料理ばかりで、外国に「かぶれている」みたいなところがあるんですね。まるでその空間だけが魔法のヴェールに包まれていて、かたくなに現実を拒んでいるかのように。それが外の殺伐とした世界の厳しさをより一層際立たせています。そして、現実に直面した英子のなかで「英語」という魔法が解けはじめたとき、今まで二人の拠り所となっていた高崎夫人の「森」も瓦解していきます。その他にも、「英子」という(この作品においては)いかにもフィクションらしい名前や、「娘」という抽象的な三人称が作中で頻繁に使用されている点、英語信者への警句が込められている点など、本作品はおとぎ話や寓話に共通する要素を多分に有していると言えます。

一定程度英語を勉強してきた人なら、世間の「英語できる人」や「英語ペラペラ」のイメージってどこか胡散臭くて、語学力が単なる装飾のように見られていると感じた経験があるのではないでしょうか。わたし個人の経験だと、語学の資格と実務上のスキルは必ずしも比例しないのに、英検一級保有と言うだけで自動的に「英語ペラペラ」に分類されてしまうこともしばしば。喜んでいいのやら、申し訳ないやらで、いつも困惑してしまいます。ちなみに、英語を使わない職場で「英語ペラペラ」とセットで言われるのが、「せっかく英語ができるのに、もったいない」です。(笑) まさに英子の母親が言いそうな一言ですね。


実際の就活市場では、語学力は装飾程度の価値しか認められていないのかもしれません。(「映え」の時代だけに。)だとしたら、英子の言うように、さんざん電車内の広告などで英語力をもてはやし、やれ「4技能」だの、やれ「グローバル人材」だのと、英語教育を推し進める大人たちが無責任に思えてしまうのも無理のないことでしょう。

そうそう、物語には英子が「グローバル」と呼んでいる男が登場します。何かにつけ「グローバル」を持ち出してくる面白い男です。グローバル人材って、掴みどころのない存在ですよね。誰か説明できる人がいたらどんな人材なのか教えていただきたいです。国は英語教育を推進してグローバル人材の育成を推し進めているように見えるけれども、英語さえ使っていれば自動的にグローバル人材になるのか甚だ疑問です。だとしたら、英語は話せないけれど日本に居住する外国人を支援している人はグローバル人材ではないのか。考えれば考えるほど、「グローバル」の謎は深まるばかり。(笑) 

このように、『英子の森』には、「英語を活かす仕事」の生々しい現実が皮肉たっぷりに描かれています。現実をありのままに描いてしまうと露骨すぎるから、おとぎ話という建前によってシュガーコーティングされているのかもしれません。(むしろさらに毒が効いているのですが。)個人的には、「英語を活かす仕事」の呪縛から解放されるような心持ちで読ませていただきました。「英語を勉強することよりも、英語で何をしたいのかが大事だ。」と教えてくれた高校の先生の言葉はひとつの真実です。でも、勉強する過程そのものが楽しいから勉強するというのも、英語を学び続ける立派な理由だとわたしは思います。そもそも、ほかの誰かに英語を学ぶ意義を承認してもらう必要はありません。この本を通して、自分は英語とどう付き合っていきたいのか、改めて考えてみてはいかがでしょうか。