翻訳家の鴻巣友季子先生が「我が心のバイブル」と絶賛されており、気になって読んでみました。以下は書評というより、主人公らについて考えたことをあてどもなく書いたものなので、作品を読んでいない人は何のことやらと感じられるかもしれません。悪しからず。


傑作というのは一言でその感想を言い表すのが難しいものですが、わたしにとってこの作品を表す一言は「ぬらぬら」です。これは作中でも何度も登場する擬態語なんですが、読んでいると、心という臓器があるとして、その裏側あたりがぬらぬらとしてくるのです。「ぬめぬめ」でも「めらめら」でもない。不快感と不安と興奮と好奇心と焦りのようなものが入り混じった感じ。


ぬらぬらの正体はいまだに不明なのですが、ひとつには、主人公の熊太郎が必ずしも親しくしたいタイプの人間でないのにそこに自分を重ね合わせずにはいられないというという点にあるような気がします。


いや、彼は憎めないところもあるのですよ。むしろ善人です。でも熊太郎の善というのも語り手が彼の内面を鮮やかに言語化してくれればこそ見えるわけで、そんなこと知る由もない周囲の人間からすればなるほど熊太郎はちょっと気持ち悪い、なるべく関わらずにいようと思うのも無理ないタイプなのです。


熊太郎の思弁をたどって分かったことは、実は彼が厳格なモラルの持ち主であるということです。自分のなかの利己心さえも許せぬ厳格さ――社会規範や道徳心といったものを超越したモラル。そこには清浄であることへの非現実的なまでの執着が垣間見えます。彼の頭のなかには秩序のようなものがあるとして、その秩序においては、人間というものが正しい状態であることが前提になっている。ガラスのように繊細で、とても不安定な秩序です。些細な出来事が彼の秩序を脅かす重大な出来事として拡大解釈され、熊太郎は「裏切られた」という強烈な憤りと人間への不信を抱くようになります。少しずつ彼の秩序に亀裂がはいり、ついにそれ自身を保てなくなった結果、あのような悲劇が起きてしまったのかもしれない。


熊太郎はワルぶって威張り散らしているのですが、本当は人一倍臆病で、おまけに自分のなかの秩序に反するズル賢いことができない性だから、いつも損をしたり馬鹿を見たりする羽目になります。しかし正直者なら誠実で真面目かというと全くそんなことはありません。自堕落な生活を改めようと何度も決意するのですが、結局は口ばかりなのです。そう簡単に自分を変えることができたら人間苦労しませんって。子ども時代の遊び仲間たちが百姓の子としてまっとうな大人へと成長していくのに対し、彼だけは社会に迎合できず、大人の形をした子どものようなまま、酒と女と賭博に溺れ、孤立を深めていきます。


読者は、彼が悲劇へと一歩近づくたびに、「あかんではないか」と苛立ちを感じずにはいられません。と同時に、自らの中にも熊太郎がいるのに気づいて、ちょ、お前なんでいるんだよ、と不安な気持ちになり、とてもぬらぬらします。


彼がワルのように振舞うのは、自分の思考をうまく伝えられないことということが関係しています。彼には自分の思考を伝える言葉がなかったのです。これは語彙力云々の次元ではありません。同じ文法と語彙を有していても、生まれ持った思考装置が同じ村で育った周りの人間のそれと違う、みたいな感じ(と、わたしは解釈しました)。直感的なものはあるんだけど、それを自分に説明するための言語(ロジック)がない、みたいな。ジグソーパズルのピースのような思考がどっと一度に押し寄せてきて、なんとかしてそれを伝えようとするのですが、それを並べ直して目の前にいる相手に伝える術も要領の良さもないので、そのピースはぱらぱらと指の間から落ちていってしまいます。側からからみるとやはり滑稽。


熊太郎が思考を言語化できずにまごつく様は、まるで高校時代の体育の授業でダンスをしている自分を見ているようでしたね。頭で処理した情報を体に伝達してお手本通りに踊っているつもりなのですが、どうも動きがぎこちないらしい。周りの子がいとも簡単にやってのけることが、どうして自分にはできないんだ、恥ずかしい、ならいっそのこといかにもやる気なさそうに踊ってやる、と自分は半ば投げやりになっていました。異性に興味を持ち始めた熊太郎が村の若い娘たちに声をかけようとする場面もそんな感じで、女子と戯れている友達が言いそうなあいさつを用意しておいて不自然にならないよう声をかけるのですが、上手くいきません。自然を装う努力がまた逆に彼の滑稽みを浮き彫りにしていて、やはり熊太郎は孤立してしまいます。同じ村でどこにでもある百姓の家庭で育ったはずなのに、思考と言語が一致しないという不幸に見舞われた熊太郎だけがみんなと同じにはなれないのです。読者は語り手によって完成されたパズルを眺めているので、そんな熊太郎に同情してしまいます。


熊太郎のほかに、もう一人興味深い登場人物がいます。谷弥五郎です。熊太郎は少年だった弥五郎を助けるのですが、十数年後思わぬかたちで再開したふたりはやがて兄弟分のような関係となります。弟分の弥五郎は何をさせても器量がよく、特に喧嘩においては彼の右に出る者はいません。熊太郎のようにただ虚勢をはっているのとは違います。村の百姓を何人も一人で相手できるくらい強いです。弥五郎は世渡りの才があり、山の中でもたくましく生きていける生活力もあります。というのも彼は恵まれない境遇に生まれ、子どもという弱い立場を容赦なく利用する大人の狡猾さ、非情を嫌というほど味わってきたので、社会を生き抜く知恵や反骨精神が自然と身についていたのです。おまけに妹思いという人情みもある。企業が求める人材は間違いなく熊太郎ではなく弥五郎のような人間でしょう。熊太郎からすればまぶしすぎるくらいの弥五郎が自分のことを「兄哥」と呼び慕っているのだから、頼もしいやら申し訳ないやらで、熊太郎自身も複雑な心境になります。


面白いのは、彼からは苦悩のようなものがほとんど感じられないことです。ストレートなんです。熊太郎のように頭の中で理屈をこねくり回したり、他人の目を気にしてウジウジしては自分を苦しめたりする様子はありません。女が好き、賭博が好き、うまい酒が好き、といった自己の欲求向かって効率的な手段によって行動する実際家。それでいてやすやすと世間に迎合するような浅はかな人間ともちがう。一匹狼的なところは熊太郎に似ていますが、弥五郎の場合世の中に溶け込めないのではなく溶け込まないのであり、世間に対して無敵というか、熊太郎のなかにある秩序と無関係なところで生きているふうな印象を受けます。弥五郎こそ熊太郎の描く清浄そのものだったのではないか。熊太郎にとって弥五郎は最後の砦(?)だったのでしょうか。


思考と言語が一致しないというのは何も特別なことではないと思います。少なくとも、内にあるものをうまく言葉にできない、他者に理解してもらえないという感覚は多くの人が経験したことがあるはずです。一致しているように見える人も、そう見えるだけで実は一致していないという自覚がそもそもないのか、あるいは騙し騙しやり過ごしているだけなのかもしれません。そもそも言葉で伝えられることって、あらゆる意識や思考のうちのほんの一部でしかなく、人間の心の深部(ってどこよ。)にあるものを完全に伝えることは限りなく不可能に近いと思うんです。熊太郎のように、持ち合わせているのが寒村の百姓言葉だけであればなおさら。わたしも思ったこと感じたことを言語化できない歯がゆさを感じながら生きているので、自分の思考をまるっと言葉に翻訳できる人がいるとすれば、それは幸運な人たちだよなぁと思わずにはいられません。