『七つの蕾』を読みました。あの村岡花子が作者松本瓊子を将来のオルコット女史・バーネット女史として紹介されているのも納得できる、愛情溢れる心のあたたまるお話でした。作者が19歳の時に書いた作品というのがまた驚きです。

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    物語に登場する草場家の子は四人姉弟です。みんな仲良しで、創作をしたり劇をしたりするのが大好き。長女の百合子(サユリ)はちょっと気が小さいけれど優しくて聡明な17歳の文学少女。次女の梢(コッチャン)は「アバレ馬」と自分でも認めているほど元気いっぱいで、ユーモアと思いやりに満ちたこの小説の主人公的存在です。そして12歳の譲二(ジョッペ)はファーブルを私淑し昆虫研究に没頭する小さな博士。ひとつ下の妹ナナ(ナコチャン)をいつも可愛がったり昆虫の死骸を見せて意地悪したりしています。

    梢の親友に黎子という子があります。彼女の父親は相当な資産家で、黎子はいわゆるいいところのお嬢様なのですが、両親は黎子と幼い妹のこのみを残して亡くなってしまいます。黎子は妹思いで責任感が強く、妹のみいこも殊勝な性格で可愛い子です。経済的には恵まれていても愛情に飢えているこの姉妹のところへ、ある日父親の知り合いの息子で靖彦という可愛らしい男の子がやってきます。でもその子は顔は天使のように可愛いのですが、手に負えぬほどの暴君なのでした。

    ・・・というのが「七つの蕾」の内訳なわけですが、他にも色んな人が登場します。『若草物語』にみられる家族の絆や、『秘密の花園』にみられる子ども独特の好奇心と想像力に満ちた世界観が、草場家や日高家の子どもたちの愉快でほほえましい日常のなかにも美しい文章で描かれています。

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    さて、月並みな感想になってしまいますが、心が洗われました。普段は面倒な人間関係に煩わされまいと人を避けがち(?)なわたしですが、家族や親友といった近しい人たちと集まってわいわいやるのはいいなと思わせてくれる作品でしたね。時代が時代だから仕方ないのですが、人との交流が希薄になりがちな時だからこそいつも自分のことを気にかけてくれる人たちのことを(なんなら自分に面倒な仕事を押し付けてくるような人たちさえも)大切にしようという博愛の精神(??)が芽生えたような気さえします。

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    村岡花子は少女文学のあるべき姿を模索し続けるなかで、『七つの蕾』こそ世の少女たちが読むに相応しい、少女の「明朗さ」をテーマにした文学だと指摘しています。というのも村岡花子の時代はやたらおセンチな少女小説が人気だったみたいで、少女たちの精神が病的に育ってしまうのではないかと危惧されていたようです(18〜19世紀のイギリスにもそんな時代がありますね)。『七つの蕾』に描かれる子どもたちは、感受性に富み、辛いことがあっても前向きで、朗らかにのびのびと成長していきます。それが村岡花子の少女像と共鳴したのですね。

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    こういういい人たちばかりが登場するお話は眩しすぎる、あるいは偽善的なものとして敬遠されがちです。が、松田瓊子さんのは不思議とそんな印象は一切ありませんでした。寧ろ、実生活ではこんなにいい人ではいられない時もあるからこそ、自分の心に潤いを与えてもらっているような心持で読みました。このような美しいお話を書ける作者はきっと天使であると思わずにはいられないのですが、彼女が結核を患い23歳という若さでほんとうに天使になってしまったことは何とも惜しいことです。とにかく書くのが楽しくて書いて、文学研究と語学の勉強を熱心にされていたそうです。松田瓊子さんはこの作品の「覚え書」のなかに、「『書かずにいられない』気持のある間はおばあさんになってもきっとこんな小さいお話を書いているのだろう」と残しています。きっとこの方はいつまでも自由と希望と理想を内に抱く少女らしさをたたえた「おばあさん」になられていただろうと想像します。自分もそんなふうでありたいものです。
 
    松田瓊子さんをきっかけに、にわかに少女文学欲が高まっております。さっそく同作者の『紫苑の園』と『すみれノオト』を注文してしまいました。