あらすじ
山梨の裕福な菓子商の末っ子として生まれた万亀は児童文芸誌「赤い鳥」を愛読する少女だった。勉強がよく出来た万亀は、女専に進み東京の華やかな生活を知るも、相馬に行き教師となるのだが―。進学、就職、結婚のたびに幾度も厳しい現実の波に翻弄されながらも、いつも彼女のそばには大好きな本があった。大正から昭和にかけての激動の時代、常に前向きに夢を持ち続けたひとりの女性の物語。(背表紙よりまるごと引用)
『本を読む女』を読みながら、「あぁ、万亀はこっち側の人間だな」と感じた人はわたし以外にもいるのだろうか。恐らく何人かはいると思うけれど、「きっとわたしだけじゃないはず」なんて強気な言い方をする勇気もないので、疑問形にしておこう。
念のために言っておくと、「こっち側」というのは此の世と彼の世の話ではない。結婚するのが当然だから、企業に就職するのが当然だから――。その「当然」を当然のこととしてすんなりと受け入れ、それなりに幸せな人生を送っている(ように見える)人は「あっち側」だ。「あっち側」は他人に引け目を感じたりしない(ように見える)。この小説でいうと「房子」や「艶子」が万亀から見たそれに当たると思う。一方、時々自分でも面倒なくらい、それらの「当然」に疑問を抱かずにはいられないのが「こっち側」。人生の岐路で与えられたカードのなかでいつもベストな選択をしてきたはずなのに、気づいたら思い描いていた場所とは全然違うところにいる。絶望的なほど不幸なわけではないけれど拭い切れぬ歯がゆさが常に付きまとっている。もっとスマートな人生の運び方があったのではないか、自分は何故こうも人生をこじらせてしまう性なのだろうか、と常に悶々としている人たちが「こっち側」だ。もっとも、絶対的な区分けは端から存在せず、恐らくほとんどの人が「自分は『こっち側』」と思っている。そもそも(自分で言っておきながらなんだが)「こっち側」と「あっち側」の定義もあいまいだ。「こっち側」を(万亀のいう)心の襞を感じ取れる人とか、人生の不条理を共感してくれる人とか、自分だけは特別だと思いたい人などと表現する人もいるかもしれない。うん、自分でも何が言いたいのかよく分からなくなった。(笑)要するに、それだけ林真理子さんの描く万亀は一読者の内省的な部分に共感を呼ぶ主人公だったと言いたいのである。
万亀は、大正から昭和にかけて、時代に翻弄された女性のひとりだ。楽しい時間をはさみつつも、幸せだった幼少期をピークに、物語の終盤にかけて万亀の人生は下り坂を辿っていく。父の死や戦争といったイベントは万亀の人生を少なからず狂わせた。けれど、程度の差こそあれ、逆に狂わない人生を送ってきた人間がこの世界にどれほどいるのだろうか。それもこれも、制約の範囲内ですべて万亀自身が選択してきた結果だ。そういった人生の厳しさを受け入れながら少女から大人になっていくわけだが、万亀は決して投げやりになったりはしない。この物語では、現実を受け入れながらも理想になるべく近いものを追い続け、常に自問自答しながら生きる万亀の生きざまが淡々とした筆致で語られていく。
家族や故郷といった、切っても切り離せない関係への煩わしさや情深い面、自分のなかにある(受け入れたくない)利己心といった、万亀のなかにあるアンビヴァレントな心情が絶妙に描写されていて、万亀は自分かと思わずにはいられない。特に、「何者にもなりたくない」、「いつまでも少女でいたい」という万亀の気持ちは痛いほどわかる。「妻」とか「母」とか、「年増の独身女」(これは論外ですよ。)とか、そういったレッテルにとらわれたくない、いつまでも好きなことをして生きていたい、という気持ちに大変共感した一冊だ。