この本、帯に「翻訳とは、体を張った読書だ!」という明言があって、そこに惹かれて購入しました。本書を読んでその意味せんことが分かったような気がします。

 

突然ですが、私は翻訳に興味があります。といっても、それはもここ数年のことなのですが。そもそも、私の「英語好き」は(少なくとも半分くらいは)「日本語嫌い」がきっかけでした。何を隠そう、小さい頃からとにかく日本語の活字を読むのが苦手で。「書き」の方も、かなり支離滅裂な日本語だったと思います。だんだん日本語を毛嫌いするようになって、英語なら漢字を覚える手間もないしと、何となく取捨選択していくうちに英文学の世界に迷い込んでこんでしまい、今も彷徨い中です。でも、英語も日本語も言語や文化といった大きな枠組みの中にあるものですから、両者を切り離して考えることはやはり難しいですよね。英文学に夢中になるにつれて、嫌いだったはずの日本語もどんどん気になってくる。嫌いも好きのうち、と言えばよいのでしょうか、「幼馴染のAのやつ、いつも私のことからかってくるから嫌い!私が好きなのはいつも私にやさしくしてくれるイケメンのK君!なはずなのに、おかしいな。最近やけにAのことばかり考えてしまう…これって恋!?」的なくだりに似ていますね。(なんか違う。)苦手だからこそ、日本語に敏感になってしまうんですよ。だから今は自分の「日本語嫌い」には感謝しています。そして翻訳は英語と日本語両方の面白さを味わうための、最たるものだと思っています。

 

さあ、本題とはあまり関係のない前置きはさておき、本の感想を。コンパクトな本ですが、内容はかなり濃かったです。というのが、この本、実際に自分で課題文を訳しながら読んでいく形式になっているのです。まさにこの本の軸である「体を張った読書」という読み方の入り口になっている。翻訳は「日本語で書くこと」というイメージが強調されがちですが、その前にはもちろん読書という行為があって、むしろこちらの方が訳の良し悪しの大部分を左右する。というか実際に翻訳をしようと思ったら、一人で黙読するときのように都合よく分からないところを無視したりごまかしたりできないので、ある程度は細部まで気を配らざるを得ない。だから翻訳とは、骨身を削って読む行為であると。この本は、「『深く読む』って簡単そうに言うけど、それってつまりどういうこと?」という疑問にも、きっと丁寧に答えてくれるでしょう。

 

で、私も実際に自分で訳したものを家族に朗読してみましたのですが、悔しいことに「確かに、作品を生かすも殺すも翻訳次第だわ」という感想をもらいました。(つまり私の拙訳は後者であったわけです。)精進します。とほほ。

 

本を「読む」とはどういうことかをもう一度見直したいときに、何度でも立ち返りたい一冊となりました。

 

以下、個人的なメモ。

◆無理に均さないでもいい場合もある

◆読みにくい文章には意味がある場合もある

◆名をとるか実をとるか

◆語り手は登場人物によりそっているか、それとも客観視しているか

◆敬称おそるべし

◆些細な気づきを無視するべからず