お文さんは弥八さんと一緒に大番屋の外で

伊三次さんが出てくるのを待ちました。

喧嘩別れしているお文さんに、

伊三次さんが声をかけてくれなくても、

その姿をひと目見たかったのです。

不破さんと増蔵さんが大番屋に入ってしばらくすると、

何か聞き取れないような甲高い声が聞こえてきました。

不破さんの怒鳴る声も聞こえてきます。

いきなり大番屋の戸が開くと、

伊三次さんがよろめくような足取りで出て来たとおもうと、

地面にばったりと倒れました。

弥八さんが慌てて近寄り、その腕を取ります。

伊三次さんはお文さんを見つけ、

泣き笑いのような表情をしますが、

その顔はさんざん殴られて右目が青黒く腫れていました。

伊三次さんは黙ってお文さんを見つめたままでした。

お文さんもかける言葉が見つからず、

迷いながら伊三次さんに近づこうとしたとき、

不破さんが恐ろしい勢いで大番屋から出て来ました。

「伊三、ちょっと待て。まだ話は終わっていねぇ。」

「話なんざ、ありやせん。もう真っ平でさぁ。」

「手前ぇ・・・」

「髪結いはおれの他に掃いて捨てるほどおりやす。

小者もその通り。金輪際、旦那の御用は御免被らして貰いやす。

何が悲しくてこんな目に遭わなきゃならねぇ。

へ、しかも親身に尽くしている人にまで疑われてよ。

やってられねぇよ、全く。情が絡めばお役目に障りが出るだ?

おきあがれ、手前ぇが疑っていたからじゃねぇか。

下手人が見つかったからって、それで済むのか?

見つからなかったら手前ぇはおれを見捨てただろうが。」

伊三次さんの口調の激しさに、

たまらず弥八さんが口を開きますが、その腕をも振り払い、

「八丁堀の旦那、何年おれとつき合って来たのよ。

手前ぇの眼は節穴か?」

伊三次さんは悔しさに声を震わせ食って掛かります。

不破さんは押し殺した声でようやく、

「仕方がねぇ。同心は人を疑うのが商売だ。」

と蒼白の顔色で応えます。

伊三次さんは不破さんに背を向け歩き出しました。

「伊三、本当に何も彼もやめるのか?」

との不破さんの問いにも応えませんでした。

伊三次さんは、家ではなく舟着場へ向かっていました。

お文さんや弥八さんの問いかけにも応えません。

伊三次さんが舟に乗り込むと、

お文さんも後を追おうとします。

「帰れ」と甲走った声を上げる伊三次さんでしたが、

「船頭さん、そのお人は文なしだ。

わっちを乗せないと船賃が出ない。」

ととっさに出たお文さんの言葉が図星だったのか、

それ以上何も言いませんでした。


堀を抜けて川に出たところで、伊三次さんは船頭に、

菜の花の咲く場所へ行ってくれと言いました。

もちろん今は菜の花の時期ではありません。

でも、春に菜の花の咲くところへ行きたかったのです。

そこは、殺された惣兵衛さんが、芸者・菊弥さんと

かけおちの待ち合わせをした場所でした。

すると、お文さんは菊弥さんのことを覚えていました。

深川で芸者をしていて、お文さんも踊りの稽古を

つけてもらったことがあったとか。

でも去年、亡くなったそうです。

「でも、今頃はあの世で糸惣のご隠居と逢っていらっしゃいますよ。

きっとそう・・・」

そしてお文さんは川へ視線を向け、

「わっちがここで待つといったらお前ぇは来てくれるかえ?」

「・・・」

「いつまでもここにいると言ったら・・・」

伊三次さんは咳払いをひとつしてから、

お文さんの方に腕を伸ばします。

「伊三さん、堪忍しておくれ。

お前ぇに背かれるのは死ぬほど辛い・・・」

「世の中金じゃねぇとよ。糸惣の隠居の遺言だ。」

「あい・・・」

「おれぁ金はねぇぜ。」

「わかったから・・・」

眼をとじているお文さんには、

すすきのそよぐ音が菜の花に変わったように思えました。

そして、閉じた眼の裏にはいちめんの菜の花が咲き乱れ、

静かにゆれていました。


おしまい。


この話を1番に選んだ理由は、不破さんに裏切られた

伊三次さんの切ないまでの気持ちと、不本意ながら

喧嘩別れしたお文さんの伊三次さんを思う気持ちに

なんだかじーんときたからなのです。

喧嘩別れの理由や、伊三次さんの商売のこと、

不破さんとの関係、そのほかの事件などなど、

たくさんのお話がありますので、ぜひぜひ

読んでみてください!!

そのうち、後日談も書こうと思っておりますので、

お待ちくださいね。


さて、次回からは映画「武士の一分」を

お送りしたいと思います。