次の朝、伊三次さんはいつも通り、

不破さんの屋敷へ行く準備をしていました。

玄関を出ようとした時、「伊三次」と耳慣れない声が聞こえ、

返事をするより先に戸が開きました。

そこに立っていたのは、北町奉行所隠密周り同心

「緑川平八郎」さんでした。


 ※同心には定町廻り、臨時廻り、隠密廻りがいます。

   市中の見回りなど今の警察官のような仕事を

   するのが定町廻り、その補佐が臨時廻り、

   そして変装して密かに探索するのが隠密廻りです。


緑川さんと不破さんは昔からの友人で、

伊三次さんも何度か口を利く機会がありました。

滅多に笑顔を見せず、酷薄な表情にひやりとすることもありました。

「旦那、何かありやしたんで?」

伊三次さんは緊急な御用ができたのだと思っていました。

緑川さんはすばやく玄関に入り戸を閉め、

伊三次さんを冷たい視線で見つめました。

「お前、何をした?」

訳がわからない伊三次さんに、

緑川さんはイライラした様子で覆い被せて訊ねました。

「糸惣で何をした?」

「糸惣は昨日、朝方に行って、

ご隠居の顔を見て来ただけです。それが何か?」

「どうして糸惣に行ったのだ。

あそこはお前の丁場(得意先)でもないだろう。」

「以前は通っていたんですよ。それで店の前を

通り掛ったものですからちょいとお邪魔しました。

ちょいとと申しましたも一刻(2時間)ほどですが。

埒もない世間話をしただけです。」

「隠居は夜中に殺された。離れに忍び込んだ者が

隠居を殺して金を奪ったのだ。」

伊三次さんはびっくり叫び!?

しかも店の者が物音に気づいて離れに行ってみると、

惣兵衛さんはまだ生きていて、

今際のきわに伊三次さんの名前を言ったそうです。

伊三次さんには何がなんだか分りません。

「昨日、友之進と約束した時間にもお前は現れていない。

お前の足取りは昼からぷっつりと跡絶えている。

どういうことなんだ?」

「旦那との約束の時間には行きやした。」

「何をいう。お前は約束の時間より相当遅れ、

ちょいと顔をだしただけでそそくさと帰ってしまった

そうじゃないか。書役はそう言っていたぞ。」

ここで伊三次さんは、自分が約束の時間を

間違えたことに気づきました。

伊三次さんはお紺さんのことを思い出し、

アリバイを確かめてくれといいます。

緑川さんはそちらにも当たる、詳しい話を聞きたいから

とりあえず大番屋まで来てくれとそう答えました。

「おれはこれから不破の旦那の頭を拵えに行くことろです。

大番屋にはそれが済んでから参りやす。」

「その必要はない。友之進には断りをいれている。

まっすぐ大番屋にくるのだ。」

伊三次さんはこれを聞いてがく然となります。

緑川さんは完全に伊三次さんを犯人として見ているのです。

「旦那、後生だ。そんなことをされる覚えはねぇ。

不破の旦那に話をさせて下せぇ。

不破の旦那ならきっとわかってくれますから。」

「友之進はおれにすべてを任せると言った。

情が絡めばお役目に障りが出ると思ったのだろう。」

伊三次さんにとって耳を疑う言葉でした。

不破さんが自分を信じていない・・・

そんなことがあっていいのだろうか・・・

「旦那はおれを下手人と思っているんですかい?」

との問いに緑川さんは答えず、戸を開け、

外で待つ岡っ引きに声をかけました。

岡っ引きの留蔵さんも子分の弥八さんも、

伊三次さんの知り合いです。

「おれじゃねぇ、おれは何もやっちゃいねぇ!」

そう叫びながら、伊三次さんは妙な気持ちになっていました。

今まで犯人を捕まえるとき、何度もこのセリフを聞きました。

それを今また自分が叫んでいるのです。

それが不思議なことのように思えました。

留蔵さんは伊三次さんの顔を見ずに縄で縛り、

とうとう一言も話しませんでした。


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