「糸惣」の隠居・惣兵衛さんは、最近身体が弱り、
寝たり起きたりの暮らしでした。
具合がよければ裏口で日向ぼっこをしているそうで、
伊三次さんは裏口に回るように案内されました。
伊三次さんが裏口へ向かうと、
惣兵衛さんは台所の戸の側に腰掛けておりました。
「ご隠居様、お早うございます。
髪結いの伊三次です。お久しぶりです。」
と頭を下げると、最初は誰かわらないような表情でしたが、
すぐに笑顔を見せました![]()
「伊三次、髪結いの伊三次。」
惣兵衛さんは自分の隣に座るようにすすめ、
伊三次さんは遠慮がちに腰掛けました。
世間話の中、伊三次さんが弱音を洩らすと、
「商売がうまく行っていないのか。」
と訪ねてきました。
「いえ、そっちはなんとか・・・」
「そうか。床(髪結い床、お店)は構えたんだろう?」
「お恥ずかしいんですが、
まだそこまでは元気がありません。」
そんな伊三次さんに、惣兵衛さんはだらしがない!と一喝。
惣兵衛さんは一代でお店を築き上げた根っからの商人。
商売の話になると目が輝きます![]()
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伊三次さんはお店を持たず、
あちこちお得意先を回って仕事をしているのです。
「お前が床を構えるとなったら、長い付き合いだ。
祝儀の一つも出そうと考えていたんだ。
それがさっぱり音沙汰もない。この調子じゃ、
お前が床を構える前にわしにお迎えが来ようというものだ。」
惣兵衛さんは畳み掛けるように質問します。
「女房はもらったのか?」
「そいつも・・・まだです。」
「女房にする女がいると言っていてじゃないか。」
「へい。それも色々と事情ができまして、
うまく行きやせんでした。」
じつは伊三次さん、恋人の文吉さんと
喧嘩別れをしていたのです。
(詳しくは「紫紺のつばめ」(文春文庫『紫紺のつばめ』収録)を
ご覧ください。)
「おや伊三次さんじゃないか。」
そこに「おりき」さんという女中が声をかけてきました。
古くからいる女中さんで体格のいい方です。
おりきさんは伊三次さんを懐かしむというより、
惣兵衛さんの相手が出来たことを喜んでいました。
惣兵衛さんの店での威厳はもう失われています。
伊三次さんにはそれがなんだか少し寂しく感じました。
惣兵衛さんも話を聞いてくれるのが嬉しいようで、
伊三次さんは、帰るきっかけを失っておりました。
世間話が終わった頃、話は惣兵衛さんの
好きな女性の話になりました![]()
それはもちろん奥様ではなく、
柳橋の芸者・菊弥さんという方でした![]()
三味線も踊りも上手で、美人ではなかったけど
愛嬌があったそうです。
惣兵衛さんは、その女性にちなんで、
店で出す白粉の名前を「菊弥香」にしたそうです。
これはお店の看板商品となり、武家の奥方や、
町屋の娘達に大評判となりました。
惣兵衛さんは、菊弥さんとの出会いについて
話し始めました。
次回へ続く![]()