いっつもここにはゲス不倫のことばっかり書いてるんだけども、
いちおう私は家庭の主婦であって、
しかも「嫁」として割と保守的なタイプの外交をやっているので、年末年始は義実家にお歳暮もするし、帰省もするのだ。
そして毎年毎年、慣れない家庭と慣れない立場での振る舞いにぐったり疲れ、夜ベッドの中で(唯一自分だけの時間)気を遣って疲れている私への気遣いが1ミリも見受けられない夫への憤怒のかぎりをSNSに書き殴ったりしていたのだが、
もうさすがにそのルーティーンにもいい加減慣れてきたというか、理屈が見え透いたら真正面からイラつくのも馬鹿らしくなってきた。
だって男というものは、自分の嫁が自分の実家でいろいろと気働きする姿を親に見せたいのだ。
自分からまめまめしく嫁に気を使ったり、嫁の手伝いをする姿なんて情けなくて見せたくないのだ。
普段は自分が淹れるお茶も、親の前では嫁に淹れさせたいのだ。
ようするに、見栄を張っているのだ。
とくに、父親が亭主関白だとね。
しかし、世間一般にはこうやって旦那に見栄を張らせてやることを、「男を立てる」と言ったりするのです。
ちなみに、毎年年末年始の帰省のイライラから逃れるために私のApple Musicアカウントには「現実逃避BGM」と名付けられたプレイリストがあって、ヒムロックとか入ってるからな。
というかまず、旦那への苛立ち以前に、
帰省ラッシュの大混雑、いや、年末の繁忙期にこれまた大混雑のデパートで、年に一度しか顔を合わせない親戚に渡す手土産12個とかの調達をするあたりからこのイライラは始まっている。
これは別に義実家のせいでもなければ親戚のせいでもなくて、
私のこの労力。年末のクソ忙しい時期の時間と気力と体力とを切り売りして、一体誰のための幸せを得ようとしているのだろう?という不毛感が疲弊の原因なのだ。
私は「やらないといけない」からやっているだけであり、夫も私がそれをやるのを当たり前のことだと思っており、貰った側もこういうのは挨拶みたいなものだと思っているから形式的に受け取って形式的に渡すだけでさして嬉しいとかそういうのでもない。
つまり2万円以上の金を使い、気力を使い、運搬の体力を使い、到達した場所には誰の心も動かぬ、予定調和で退屈な瞬間があるだけなのだ。
こういうのを不毛と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。
それともあれか、将来に渡る何か目に見えなくて価値のあるものを私はこれによって買ってでもいるんだろうか?
こういう「一見不毛に見える手間」を潤滑油にして機能しているのが、親戚というネットワークなのかしら。
手土産問題に限らず、日本古来の風習とか因習とか、そういうのを人の幸せとか喜びと照らし合わせて紐解いてゆけば、気が狂いそうなほど無駄に思えるものが死ぬほどある。
「ファミリー」としての親交とは違う、形式的なよそよそしさ。でもやらなければやらないで、しこりを残す面倒くささ。
まあ良くしてもらっているのだけどね、義実家からは。
でも2泊以上はキツい。(今回は3泊!)