「どうせ私なんて」を拒絶しない。
「どうせ私なんて」に陶酔しない。
枯れ木のようになっていた自分軸がここ一年弱ですくすく育ってくれて、心をよく守れるようになってきたので、
ほんとに今までと比べて別人みたいに私は元気になった。
それでも時々、「私なんて」という感情に飲まれて落ち込んでしまう時がある。
そんな時は、自分を責めてるので、
「自分を責めちゃダメ!」と、自分に対して正しいことを押し付けると二重の叱責になってしまうし、叱責したところでなにひとつ救われはしないので責めてしまう気持ちもひたすら受け入れるようにしている。
自分を責めてしまうのには理由があって、その理由に寄り添ってあげないと最終的に癒しは起こらないからね。
時々駄々をこねる心の部分には、小さい私が住んでいる。
彼女が暴れ出すとき(私が私を責める時)「愛されたい!」と必ず叫んでいる。
「こんな私じゃ愛されない」
「価値がない」
という気持ちで自尊心が粉々になりそうな時というのは大抵、私に無い「愛され要素」を持っているように見える他の誰かと自分を比較してしまう時なのだ。
美しさとか若さとか性格の素晴らしさとかね。
自分と人とを比較する必要はない。
これは頭ではよくわかっていること。
しかしその反面、
自分と人とをつい(たまたま)比べてしまった結果「劣等感」を持ったというのは原則的に無いとも思っていて。
人との比較で劣等感を持ってしまう人(私です!)というのは、絶えず自分と他人とを比較ベースで見ていると思うのだ。つまり心穏やかなる他のタイミングでは、「優越感」を持っているか、何らかの要因で「でもここは私が勝ってる」と溜飲を下げてるか。もちろん、24時間四六時中ってわけじゃないにせよ、人生のかなりのタイミングで人と自分を比べている。
我ながら痛々しいなぁ。いや、痛々しい。
でもそうなんだから仕方ない。
思っちゃってるもんは仕方ない。
それもこれもすべて
「愛されたい」
「愛されないかもしれない」
から来ているんですよ。
「あの人みたいに◯◯だったら愛されるのに」
「◯◯じゃない私には価値がない=愛されない」
私が人との比較で凹む大抵の原因はこれ。
でもね、こんな自分を馬鹿にしたり「大人げない」とかって自己批判したりするのは意味がないどころか大幅にマイナスなのでね。
もう1ミリの自慢にもなんないけど、「愛されない不安」とは死ぬほど戦ってきたから私。
で、勝てたことは一度も無かった。
勝てたように見えたのもそれは錯覚で、それこそスピ系とか恋愛系のブログを読むと、
「不安になる必要はない。あなたは充分愛されています」とか、はたまた
「愛されない不安を持つのは親との関係で愛が貰えなかったからだ。親に感謝して親との関係を良くしろ」とか、
挙げ句の果て
「すぐ不安になるような重い女は嫌われる」とか、散々書いてあるわけ。
でも何が「抗不安」に役立ったかってと、ぜんぜん役立ってない。
その時は真に受けたけど、今となっては(好き勝手言いやがって……)と思うものもある。
だからもう、「愛されない恐れ」「人より劣っている恐れ」「私には価値がないんじゃないかという恐れ」とは一切戦わないことにした。
だって意味がないもん。勝てないもん。
そこにある「恐れ」は、もう存在してしまっているので、理性の力で無いことにはできないのだよ。
無かったことにするために(=見ないふりをするために)頑張るより、
怖がっている小さい私、「愛されたい!」と叫んでいる小さい私にとことん寄り添ってあげることのほうが遥かに有効なのだとおもう。
時間はかかるけど。
お化けを怖がるかわいい女の子を抱きしめるみたいにして、
「そうだね、怖かったね、一緒にいてあげるから大丈夫」
というふうに。
「愛してるからね、必ず助けてあげるからね」
と、そんな100%の愛の気持ちで。
まず、人と自分を比べて苦しい時、自分を責めたり相手に嫉妬したりして苦しい時は、そんな感情を見ないふりするのではなくて、
「ああ、私は愛されたいんだな」
と気づいてあげるだけでも、だいぶ違というのがひとつの大きな気づきで。
そして、こうやって書きながら感情をブレイクダウンしていくことが私にとっての大きな癒しなのだな。
風邪っぽいのでねます。
嫉妬についてはまた書こう。
なにやら楽しくなってきた。