あいみょんの「マリーゴールド」のYouTubeを貼りつけて寄越してくるY氏。
「ふーん」という感じの私。
男のほうが感傷的だな、と、こういう時に思う。
あの曲に感情移入できなくても、
私の気持ちがゆれていないわけじゃない。


Y氏は毎晩、帰り道に電話をくれる。
「どういうつもりなの」なんて、べつに思わない。

大人の関係は、いつも襞のような気持ちの重なりと共にある。
すべてに意味と名前と整合性を与えようとした途端、崩れ去ってしまうようなナイーブな繋がりの中にある。
すこし前の私だったら、この心許なさに耐えられなかっただろう。
罪と裁きと世間の目は、自分自身よりも強い力を持っていた。自らを戒めながら、もしくは、すべてをはねのける強い愛を支えに生きなくてはならないとどこかで思っていた。
被支配も依存も、そして「正しく生きること」も、
自分自身を見えなくする。
悪でないものを悪と呼んでしまったり、
愛でないものを愛と呼んでしまったり。

そのどちらも、恐れと表裏一体だ。

やわらかい森を裸足でゆくようにして、
私はちょうどよい心のありかを探ってゆく。
この世で生きることは、白でも黒でもないまどろみを泳ぐこと。
気づきが増えるほど、戻れない場所も増えてゆくけれど。
その気持ちよさを覚えたのは、ごく最近のことだ。