シラーとゲーテは、
ある日、自然研究の会合の帰りに、話しあいました。

シラー:僕は、対象としての自然を、バラバラにこま切れに扱う方法は、いやだな。
とくに僕みたいに、分野的によくわからない人間に、あの方法は良くないと思うよ。

ゲーテ:ヾ(@°▽°@)ノ そうそう、そうなんだよね!
でもさ、自然をバラバラに分析して示すんじゃなくて、自然が生き生きと活動して、
全体から部分に進んでいく様子を、表現するもっと違った方法があるはずなんだよ!






ゲーテは、すでに植物の世界について、大きな理念を発展させていました。
それは、ゲーテの精神に現れた、形的で、理念的な形式についての表象でした。

そして、シラーの前で、ゲーテは、色々な線を使って、植物のシンボルを書いてみせました。

φ(.. )



※写真おかりしました。 有名なゲーテの源植物です。

ゲーテ:こういうシンボルはね、さまざまな植物の中に生きている本質を表現できているべきなんだ。(もし、個々の植物が、ひとつの形にならって作られていないとしたら、
それぞれの植物が、「植物である」、ということを僕たちは、どうやって知ることが出来るというのか!!)ヾ(@^▽^@)ノ


すると、シラーは言いました。
シラー;それは、経験じゃなくて、イデー(理念)だね。( ´ー`)
「Das ist keine Erfahrung, das ist eine Idee]

え?(°д°;)
ゲーテは、その言葉が、まるで異世界から来たような気分になりました。


シラー:イデーが経験と一致するようなものがあるはずないよね。
    イデーが経験と一致することがないということに、イデーとしての特徴があるんだもの


キラキラ輝かせて話したゲーテは、とても不愉快な気持ちになりました。
ゲーテは、自分が考えていることと、シラーが発言したことに、かみあわない何かを感じました。ゲーテにとって、事物とイデーが一致しないということは、どうでもよいことだったのです。

そう、ゲーテとシラーの会話から、二人の決定的な本質的な違いがみられるのです。



シラーには、イデーの世界と、経験の世界は、ぜんぜん別の世界だったのです。
経験というものは、空間と時間を満たす事物の多様性に属するもので、
イデーは、その現実とは違う世界のもので、理性がそれ支配するものなのです。

つまり、世界が違うのです。理性や思考に基づくイデーの世界 vs 感覚に基づく経験の世界




しかし、ゲーテにとって、経験こそが、認識するための唯一の源泉でした。イデーの世界もそこに含まれたのです。
経験とイデーという対立はありえなかったのです。
なぜならゲーテにとって、精神的経験によって、精神的な目の前に現れたのが、イデーで、
それは、物理的に目の前に感覚的な世界があわられるようなものだったのです。


さて、シラーの、感覚的経験と精神的経験の断絶という考え方は、
は、ギリシャ古代から発端をなす西洋思想からきています。



つまり、ギリシャ古代の考え方で、あることが浮かび上がってきたことにあります。
それは、感覚は欺く、というものです。


理性や思考による純粋なものことが、真理であるという考え方がそこから生まれていきました。

つまり、ゲーテは、その脈々と続いた思考体系とは全く異なるものでした。


私も、以前、このギリシアー西洋型の思考美にどはまりしたことがあります。
暗闇のなかに入り込んだ感じがしていました。
結局、また、ゲーテ、そして、シュタイナーに助けてもらいました。

つまり、感覚をどう捉えるか、ということになります。
もちろん、感覚でつかめることは、真実ではないですよね。だからといって、感覚は真実にいたるのに必要ないものなのでしょうか。

ゲーテは、この感覚というとらえかたを革新したのであり、光をもたらすものなのです。

真実をたどるのに、暗闇を歩かなくてもいいのです。
真実の探求や世界美を楽しみながら、自分もそこに調和していけるのです。

また、書きます!


参考

http://fvn-archiv.net/PDF/GA/GA006.pdf


報告者:シュタイナー(GA6)
訳解説 オレンジスイート