教える仕事は、もう何年もやってます。その中で気がついたことがあります。
教え始めたときは、多かれ少なかれ、自分のことでいっぱいいっぱいでした。
それってどういうことでしょう
→
常に、
「できない自分」を隠して「出来る自分」でいたい、
間違いは絶対に許されない、とにかく出来ないと思われてはならない。
学生のご両親に、学歴や知識武装をして馬鹿にされてはならない。
などなどなど
経験ってすごいです。
徐々にこの辺の考え方がなくなって、すっかり消えてしまいました。
わからない問題が出てしまったら、一緒に考えます。それでもわからなかったら、はっきり「わかならい」と、申してしまって、帰宅して調べて回答を送信。
時間ドロボーしないようになりました。
それから、私は小学生から高校生まで、リクエストがあれば全ての教科をやります。
そういうわけで、全ての知識や公式を覚えているわけではないので、そのつど、教科書を見てしまいます。物理や数学ⅡBあたりは、教え方に自信がないので、自分のできる範囲を先にはっきり申し上げてしまいます。
英語は、得意科目なんですが、高校英語になってくると、間違いもします。もちろん、間違ってるかもしれない感覚はわかるので、そのたびにチェックします。
なぜか昔は、できる自分をみせることに必死で、自分のことばかり気にしていました。
※ そういえば、私は母語が日本語なので、英語やドイツ語では少し、意識して聞いてないと、意味が流れます。(日本語でも、きいてなかったら同じかw)
でも、周りに”外国語ができない”、ということを知られたくなくて、必死でできるふりをしていました。もちろん、日本にいても、日本語を話せない外国人には、英語やドイツ語で対応しますが、日本語が出来る外国人なら、即効で英語をひっこめて、どれも日本語で話します。らくらく楽チンです。英語教えてるくせに、英語できない、と思われてもぜーんぜんOKなんです。
でも、なぜか、昔はこういう「できないと思われる」ということをひどく恐れていたんですよね。
実は、この辺のことがどうでもいい些細なことであったことが経験でわかってきました。
私の小さなミスなんて実際には、どうでもいいんです。
それよりも、学生の成績を伸ばしてあげて、志望校に入れること。
不登校生なら、社会参加できるようにするお手伝いをすること。
沢山良いところを認めてあげること。悪いことがあったら、傷つけないように、そっとカバーしてあげること。
みんなの話をきいてあげること。存在そのものを受け入れてあげること。
幸運にも、私は嫌いな生徒が一人もいません。
本当にありがたいことです。だから、少なくともあなたを大好きな人が一人はいるんだよ、ってことを伝えてあげられます。
愛につつまれて、間違ってもいい、成績が悪くてもいい、それでも毎日少しずつ前進して、いつの間にか理想の自分になっている、
そういうお手伝いができればいいんです。
ちなみに、語学は、伝えるためにありますので、伝われば何でもいいんです。もちろん、学習は大事です。出来たほうがいいに決まってます。
だからって、すぐに語学はできるようになりません。
出来なくてもいいんです。練習のために話したければ、どんどん外国語を間違いながら使っていけばいいし、出来なかったら、できることで必死に伝えればいいんです。
ちなみに、語学は決して人を裏切りません。ちゃんと、やっただけ上達します。
忘れてしまったようにみえて、ちゃんと奥に勉強したことがつまってます。
だから、突然、伸びたように見える現象があります。
突然、話せるようになった、とか、突然理解できるようになったとね。
それは突然でもなんでもないんです。
シュタイナーのドイツ語も、わからなくても読むのは、その辺の理由からでした。
今では、かなりスラスラ読めるようになってしまいました。
夜、何回も読んだときにはわからなかったはずなのに、朝はすんなり入ってくる。
これは毎日の経験です!
教え始めたときは、多かれ少なかれ、自分のことでいっぱいいっぱいでした。
それってどういうことでしょう
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常に、
「できない自分」を隠して「出来る自分」でいたい、
間違いは絶対に許されない、とにかく出来ないと思われてはならない。
学生のご両親に、学歴や知識武装をして馬鹿にされてはならない。
などなどなど
経験ってすごいです。
徐々にこの辺の考え方がなくなって、すっかり消えてしまいました。
わからない問題が出てしまったら、一緒に考えます。それでもわからなかったら、はっきり「わかならい」と、申してしまって、帰宅して調べて回答を送信。
時間ドロボーしないようになりました。
それから、私は小学生から高校生まで、リクエストがあれば全ての教科をやります。
そういうわけで、全ての知識や公式を覚えているわけではないので、そのつど、教科書を見てしまいます。物理や数学ⅡBあたりは、教え方に自信がないので、自分のできる範囲を先にはっきり申し上げてしまいます。
英語は、得意科目なんですが、高校英語になってくると、間違いもします。もちろん、間違ってるかもしれない感覚はわかるので、そのたびにチェックします。
なぜか昔は、できる自分をみせることに必死で、自分のことばかり気にしていました。
※ そういえば、私は母語が日本語なので、英語やドイツ語では少し、意識して聞いてないと、意味が流れます。(日本語でも、きいてなかったら同じかw)
でも、周りに”外国語ができない”、ということを知られたくなくて、必死でできるふりをしていました。もちろん、日本にいても、日本語を話せない外国人には、英語やドイツ語で対応しますが、日本語が出来る外国人なら、即効で英語をひっこめて、どれも日本語で話します。らくらく楽チンです。英語教えてるくせに、英語できない、と思われてもぜーんぜんOKなんです。
でも、なぜか、昔はこういう「できないと思われる」ということをひどく恐れていたんですよね。
実は、この辺のことがどうでもいい些細なことであったことが経験でわかってきました。
私の小さなミスなんて実際には、どうでもいいんです。
それよりも、学生の成績を伸ばしてあげて、志望校に入れること。
不登校生なら、社会参加できるようにするお手伝いをすること。
沢山良いところを認めてあげること。悪いことがあったら、傷つけないように、そっとカバーしてあげること。
みんなの話をきいてあげること。存在そのものを受け入れてあげること。
幸運にも、私は嫌いな生徒が一人もいません。
本当にありがたいことです。だから、少なくともあなたを大好きな人が一人はいるんだよ、ってことを伝えてあげられます。
愛につつまれて、間違ってもいい、成績が悪くてもいい、それでも毎日少しずつ前進して、いつの間にか理想の自分になっている、
そういうお手伝いができればいいんです。
ちなみに、語学は、伝えるためにありますので、伝われば何でもいいんです。もちろん、学習は大事です。出来たほうがいいに決まってます。
だからって、すぐに語学はできるようになりません。
出来なくてもいいんです。練習のために話したければ、どんどん外国語を間違いながら使っていけばいいし、出来なかったら、できることで必死に伝えればいいんです。
ちなみに、語学は決して人を裏切りません。ちゃんと、やっただけ上達します。
忘れてしまったようにみえて、ちゃんと奥に勉強したことがつまってます。
だから、突然、伸びたように見える現象があります。
突然、話せるようになった、とか、突然理解できるようになったとね。
それは突然でもなんでもないんです。
シュタイナーのドイツ語も、わからなくても読むのは、その辺の理由からでした。
今では、かなりスラスラ読めるようになってしまいました。
夜、何回も読んだときにはわからなかったはずなのに、朝はすんなり入ってくる。
これは毎日の経験です!