「シュタイナーを誰よりも知っている」という人から、押さえつけられるように、私のシュタイナー観を否定され、外側から、私の考えを変えるように強要された、苦い経験があります。
たしかに、私は、シュタイナーをよくわかってないことも自覚しておりますし、シュタイナーがゲーテ研究で警笛を鳴らしていたことを肝に銘じています。
つまりゲーテは、学問においてはっきり示してはいない"内的確信"をもっていて、すべてはそこから展開されました。
しかし、多くの哲学者は、間違いをおかしてきました。ゲーテの内的確信や思考世界から派生した"細部だけ"をみて、比較・判断してきたのです。 つまり、内的確信や世界観から切り離したものだけをみることで、おかしなことがおきるのです。
だから、対立した哲学者たちが、お互いを罵倒しながら、ゲーテを崇拝している、ということがおきます。 ゲーテをしっかり見抜いたのは、シラーで、シラーのゲーテに対する見方そのものが、シュタイナーの基盤になります。
ちなみに、私は、シラーはゲーテほど好きではありませんでした。しかし、切り離して考えられませんでした。それもそのはず、ゲーテはシラーという素晴らしい"鏡"があってこその、ゲーテであったのですね。偉大なシラーがいなければ、ゲーは輝けなかったんですね。
シュタイナーを読んでいると、私がずっと苦心してきたドイツ文学・哲学マップがすっきり整理されていきます。ヘーゲルやショーペンハウアーさえも、前よりはっきりみえてきます。
しかし、私が、シュタイナーの内的確信をしっかり、私のものに出来ているか、といえば、残念ながらノーです。
18才から15年近い時をかけて、ドイツ語、ドイツ文学・哲学、薔薇十字、ゲーテ、シュタイナー思想全体図、オイリュトミー、フォルメンなどの土壌がようやくできて、
ようやく、ごりっとした種にあたりました。はっきりと、私は、シュタイナー思想の芽にあたる、GA1-6を、私の精神土壌中に埋めて、働かせる必要性を感じました。
GA2の、晩年にシュタイナーがつけくわえた前書きにも書いてありますね。 「1923年の今書いたら表現はたしかに変わるけど、ここから、色々な晩年の思想が生まれていった大事な芽」であること。
シュタイナーは、1886年の書を改訂しないで、再出版しています。つまり、ゲーテ-シュタイナーの世界観からいえば、これが、どんなに意味があることか、私にははっきり感じました。
だけど、上述したような人から、私の人生を否定されるいわれもありません。
だから、上から目線や外側から人を変えようとするような人も、断固ノーです。
これは、ゲーテ-シュタイナーの世界観からは、逸脱しています。
つまり、ゲーテ-シュタイナーの内的確信には、到達していないはずです。
上から目線や外側からの思想強要は、ゲーテ-シュタイナーの世界観からは、まったく矛盾した態度なのです。
私は、ただ、シュタイナーをちゃんと理解したいと思っています。
ゲーテのシラーのように、なんていうのは、かなりおこがましいですが、そういうものを理想にしたいのです。つまり、他人をシュタイナー思想で染めたり、シュタイナー教育を広めたり、そういうことは、まったく私の立場にありません。

たしかに、私は、シュタイナーをよくわかってないことも自覚しておりますし、シュタイナーがゲーテ研究で警笛を鳴らしていたことを肝に銘じています。
つまりゲーテは、学問においてはっきり示してはいない"内的確信"をもっていて、すべてはそこから展開されました。
しかし、多くの哲学者は、間違いをおかしてきました。ゲーテの内的確信や思考世界から派生した"細部だけ"をみて、比較・判断してきたのです。 つまり、内的確信や世界観から切り離したものだけをみることで、おかしなことがおきるのです。
だから、対立した哲学者たちが、お互いを罵倒しながら、ゲーテを崇拝している、ということがおきます。 ゲーテをしっかり見抜いたのは、シラーで、シラーのゲーテに対する見方そのものが、シュタイナーの基盤になります。
ちなみに、私は、シラーはゲーテほど好きではありませんでした。しかし、切り離して考えられませんでした。それもそのはず、ゲーテはシラーという素晴らしい"鏡"があってこその、ゲーテであったのですね。偉大なシラーがいなければ、ゲーは輝けなかったんですね。
シュタイナーを読んでいると、私がずっと苦心してきたドイツ文学・哲学マップがすっきり整理されていきます。ヘーゲルやショーペンハウアーさえも、前よりはっきりみえてきます。
しかし、私が、シュタイナーの内的確信をしっかり、私のものに出来ているか、といえば、残念ながらノーです。
18才から15年近い時をかけて、ドイツ語、ドイツ文学・哲学、薔薇十字、ゲーテ、シュタイナー思想全体図、オイリュトミー、フォルメンなどの土壌がようやくできて、
ようやく、ごりっとした種にあたりました。はっきりと、私は、シュタイナー思想の芽にあたる、GA1-6を、私の精神土壌中に埋めて、働かせる必要性を感じました。
GA2の、晩年にシュタイナーがつけくわえた前書きにも書いてありますね。 「1923年の今書いたら表現はたしかに変わるけど、ここから、色々な晩年の思想が生まれていった大事な芽」であること。
シュタイナーは、1886年の書を改訂しないで、再出版しています。つまり、ゲーテ-シュタイナーの世界観からいえば、これが、どんなに意味があることか、私にははっきり感じました。
だけど、上述したような人から、私の人生を否定されるいわれもありません。
だから、上から目線や外側から人を変えようとするような人も、断固ノーです。
これは、ゲーテ-シュタイナーの世界観からは、逸脱しています。
つまり、ゲーテ-シュタイナーの内的確信には、到達していないはずです。
上から目線や外側からの思想強要は、ゲーテ-シュタイナーの世界観からは、まったく矛盾した態度なのです。
私は、ただ、シュタイナーをちゃんと理解したいと思っています。
ゲーテのシラーのように、なんていうのは、かなりおこがましいですが、そういうものを理想にしたいのです。つまり、他人をシュタイナー思想で染めたり、シュタイナー教育を広めたり、そういうことは、まったく私の立場にありません。
