シュタイナーは、自身の様々なアイデアをシステマチックにまとめませんでした。

彼の講義や対話などに含まれるアイデアは、どれもバラバラの断片的。

しかし、それが、いかに素晴らしいことだったか、今ならわかります。  

もう、彼の資料を整理はじめて、何年もたちます。まあ、ゲーテが重要なのは、本当によくわかりますが、シュタイナーは、決して、"ゲーテの眼"に直接向かわせようとしませんでした。  

私自身も、ドイツ文学科として、ゲーテの様々な作品に、いやがおうでも沢山触れてきました。ゲーテ派の作品も沢山です。
しかし、自然学者としてのゲーテに、直接触れることはあまり、ありませんでした。  

彼の色彩論や形態学に向かう流れになり、
しばらくして、ゲーテの眼に映ったはずの、形式がはっきり見えてきました。  
それは、今まで、ゲーテやシュタイナーの芸術や芸術的な形式に触れてきたから、だからこそ、私自身も、一であり多である重層性や象徴方法が見えたのだと思います。


そしたら、いもずる式に、シュタイナーのさまざまなアイデアがつながるじゃありませんか。

つまり、彼は、ゲーテの眼のように、多様性が含まれる全体を絶えず意識していたはずです。

だから、全ては一つであり、断片的だったんです。
しかも、一つにするのは、シュタイナーが外から私たちに働きかけるのではなく、私たち一人一人が自らそうするんです。  

そうすると、はっきり見えてきます。
ゲーテがわかんないと、シュタイナーはわかりません。

そして、私には、ゲーテをもっとはっきりさせる必要性があります。(私には、ですよ)

シュタイナーがしたことと比較して、
わかることがあります。

長くシュタイナーに携わってる人たちが、私にシュタイナーの真髄を理解させようと、必死になる気持ちはわかります。
しかし、私は、その人たちについていこうとは、思いませんでした。  

それこそ、シュタイナーが嫌がった、システマチックな方法だったのではなかろうか。 外側から何かの統一を持って理解させようとしたのです。  

つまりですよ、私に、ゲーテの眼が必要だと、なんとなく思わせても、「ゲーテの自然科学論」に取り組め、と言われなかったのに、
自然にそういう流れや考えに至ったように、

これをしろ、あれをしろ、なんて、
自分勝手な安易な判断で、人に言っても、ダメなんです。

私は、「オイリュトミーの私のクラスを受けなさい」、と言われたことがあります。断ったら、私が、いかにダメか書いてある長いメールが返ってきました。 もちろん、「やりなさい、私は、あなたより解ってるんだから。」と言うものでした。
オイリュトミーが、素晴らしいのはわかります。
しかし、私が、シュタイナーを読む限り、
オイリュトミーって、別にクラスで習わなくても、例えば、木を見て、その木のように動くことだってオイリュトミーではないか、と思うんです。そういう意味ではオイリュトミーをやってますし、良い先生は、今も探しています。

だから、私が、誰かにゲーテをやりなさい、なんて言いたくないし、言ってはならないんです。

私は、切磋琢磨して、ゲーテ-シュタイナーの眼を獲得してこそ、誰かに伝えていける人になれます。



逆に考えると、

そういう意味で、シュタイナーは、今でも最高の先生です。





ゲーテの色彩環
(作 オレンジスイート)