いまは、
ゲーテ・シュタイナーを中心に調べています。
どんなことがあっても、今までは、内側から突き上げるように、どうしても、どうしても、ドイツ語・ドイツ文から離れることができませんでした。

ドイツ語で、なかなかに読めるようになり、シュタイナーやゲーテに本腰をいれはじめると、同時に切羽つまったような突き上げるエネルギーがなくなっていきました。  


最近は、さらに、消失ぎみです。
というのも、私の求めてきた、「在り方」に、たどりついたからです。  
幼いころから、自然と動物と一緒にいるしかなかったとき、自然から、認識方法を学びました。 自然に身に付いたその方法。しかし、あまりにも漠然としていました。  それは、構造的なものです。
私は勝手に、構造学と、よんで、それにあう研究方法をさぐり、色々ためしました。
勝手に現代的な認識方法であると勘違いし、私が得たこの構造的な認識は、最近の新しいメディアから影響されたものだと思っていたんです。 おかしなことに、この認識が、自然からもたらされたものだと、シュタイナーやゲーテに出会って確認することができました。

そういえば、
ゲーテがやってきたとき、その意味がわかりませんでしたが、シュタイナーやゲーテが、なんらかのつながりを持っていることは、感じていました。  しかし、ゲーテの自然的で生き生きとした表現と、構造が、いまいち、つながらなかったんです。
だから、どんどん調べました。

最近、ゲーテの認識方法、構造的、象徴法、 それらが、やっとわかりました。
私が、昔、漠然として、掴んだ認識方法と、ゲーテやゲーテ学者、シュタイナーが説明する方法が合致したんです。  
難しい話ではないんです。 たしかに、この態度で、作業を続けるのは、難しいですが、在り方や態度そのものは、難しい話ではないんです。
ただし、いまは、簡単でありながら、簡単に説明できる自信はありません。

いまは、空間、形の動きとして、私の中にあります。  
いまは、これらが、どんな物になっていくか、わかりません。

しかし、今後も、ゲーテ・シュタイナーを調べ続けて、なにかしら、シェアしていきたいと思います。